天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(13)―

ちくま学芸文庫

     降る雪や明治は遠くなりにけり
                中村草田男『長子』


山本健吉彼ははじめ「雪は降り」と置いて意に満たないまま推敲の結果このような上五にきまった。その時謡曲『鉢の木』の有名な「ああ降ったる雪かな」という文句が働きかけている。この「降る雪や」には作者の並みでない苦心が払われたすえ辛うじて得られたものであった。形から言えば「雪」と「明治」のほかは用語や虚辞であって、詠嘆調が濃い。しかも「や」と「けり」と切れ字が重複している。それが耳ざわりとならないのは、「や」が二つの名詞にはさまれてなかば接続詞的役割を持ち、そのまま一本調子の詠嘆として通っているからだ。「降る雪の明治」と枕詞のように感じ取ってもいいくらいである。しかも「降る雪や」はこの句の現実世界への唯一のつながりどころであり、一句を支える拠点としての重さと安定とを持っている。「明治は遠くなりにけり」とは草田男の悔恨である。雪がいっさいの追想も哀愁も悔恨も美しく導き出してくるのである。
[川名 大]「明治は遠くなりにけり」は、人口に膾炙している慣用句である。このフレーズの上五に何を持ってくるか。初案の「雪は降り」では切れが生きず、陳腐だ。再案で「降る雪や」と体言の下に切れを入れた詠嘆的な断絶を設けることで、景と情との二物衝撃の効果が十分に発揮された。景の「や」と情の「けり」とが上下で響き合い、詠み下してからまた上五に戻るエンドレスの律を生み出している。


切れ字の「や」と「けり」を一句の中で用いている特殊な例としてよく引き合いに出される。僅か十七字の俳句では、切れ字は一つが大原則なのだが、この句に限っては、非難されることがない。類似の句で有名な例を知らない。「明治は遠くなりにけり」が、慣用句であったところが成功の一因と思われる。山本、川名の両者、いずれも得心のいく鑑賞である。