天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

吾輩には戒名も無い(4/8)

短歌研究社刊

 猫をよく詠んだ現代歌人に、小池光がいる。『草の庭』に一五首、『静物』に一三首、『滴滴集』に三八首、『時のめぐりに』に二一首、『山鳩集』に二二首 など。そして愛猫との死別については、「短歌人」二0一四年一一月号「日々鈔(猫の死)」に次の八首がある。まさしく連れ合いを亡くした哀悼の歌だが、相手が動物であることは、姿や動作についての遠慮のない直截な表現から了解できる。


  生きの緒のをはりのちからをふりしぼり噛み切るまでに
  わが指を噛む


  骨と皮ばかりになりしなきがらをバスタオルに包むいのちをはりぬ
  冷蔵庫の中におきたる猫の餌ののこり捨てたりさよならと言ひて
  卓上に赤い首輪のひとつのこる小さき金色の鈴をつけたり
  階段を上りくるとき鈴鳴れりしやらりしやらりと忘れざらめや
  十五年ともに暮らしし歳月はここにをはりぬ秋の日しづか
  てのひらに収まるほどの骨壷に入りてかへれりせつなきものを
  秋の日は庭のトラノオの花にそそぐひとりとなりしわれは見てをり


また同年一二月号の「日々鈔」に次の一首が載っている。
  いなくなりし猫いましがた出でしごと半分ひらきゐる夜のドア


 これら一連を鑑賞してみよう。一首目からは壮絶な最期であったことが分る。「噛み切るまでに」が真に迫る。二首目下句に愛情とあきらめが感じられる。三首目は猫の食べ物を捨てる時に、「さよならと言ひて」は悲しすぎる。四、五首目からは、赤い首輪についている金色の鈴から生前の猫の姿や動作が偲ばれる。六首目以降からは、この猫と十五年暮したのだが、秋の日に亡くなったこと、死体は葬儀社に依頼して火葬に付したこと、そして妻や子供らは同居していなくて、ただ猫と共に暮していたことなどが分る。「ひとりとなりし」がなんとも切ない。「短歌人」の過去数年の小池作品を読んでいる読者には、二人の娘さんが独立し、奥さんが亡くなっていることが分るので、更に心に沁みるのである。日が経って、半分開いている夜のドアを見るにつけ、ありし日の猫の挙動を思い起こすという。