天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

俳句と短歌の交響(7/12)

歌集『ジャダ』(短歌研究社)

短歌の上句に俳句を置く
 俳句は、独立して鑑賞できる発句として、連句から切り離されたもの。それを逆行して、俳句に脇句を付けて短歌(短連歌)にする場合である。現代では、藤原龍一郎が歌集『ジャダ』において試みている。「東京低廻集」―俳句からの変奏曲― がそれである。俳句は、俳人・藤原月彦として作った作品。自作の俳句の価値を貶めるような危険な試みとも思えるが、短歌の形で十八首ある。連句の歌仙ともなっている。以下では、歌仙としての検討は省き、個別に四首をとりあげて下句七七を付けた効果を見てみる。上句(「 」の俳句部分)と下句との関係が読者の解釈により感慨深いものになれば成功。
  「鹿火屋守なる存在を疑はず」副都心線雑司が谷過ぎ
上句のことを思ったのが、ちょうど地下鉄副都心線雑司が谷駅を過ぎたところだった、という解釈になる。鹿火屋守と雑司が谷の関係は不明。
  「いわし雲久坂葉子といふ人や」ガラスの窓に蠅動かざる
久坂葉子は小説家で、四度の自殺未遂の末に、一九五二年の大晦日に阪急六甲駅で鉄道自殺を遂げた。その人のことを蠅がとまっている(阪急電車の)ガラス窓を通して、鰯雲を見上げながら思い出している。
  「終日を秋の雨降り書痴暮し」アムステルダム運河濁るか
終日、秋雨が降り続いている。読書していてふとアムステルダム運河もこの雨なら濁るのでは、ととりとめもないことを思ったのだ。それは読書の内容が、アムステルダム運河に関わっていたからであろう。
  「秋陰に鉄道雑誌縛られて」蛍田寒き駅なりしかど
下句において、上句の情景のある場所を蛍田の駅として明らかにした形。
 短歌の上句に俳句を置く構造は、下句がなくてもよい、とか何でも付くとの批評を受けやすいので、一首として印象深くする下句が肝要。