天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

道づくし(6/11)

斎藤茂吉歌集『あらたま』短歌新聞社

このような物理的通路としての道は交通手段の発達で通行が便利になるにつれ、歌での現れ方も様変わりしてくる。ひとつは、車道、鉄道、空路といった新しい道が出現する。ちなみに、わが国に汽車が導入されたのは、明治五年、自動車が明治三十七年、飛行機は明治四十三年であった。ふたつには、便利になったため、小池光の例のように現実の道を歩くことの苦しさを詠むことが少なくなった。現代歌人にこの傾向は顕著である。
次は、形而上学的な色彩を帯び始める歌。有名な斎藤茂吉の歌をあげよう。

 あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
                『あらたま』

この歌について、茂吉自身は代々木原を実際に通っていた一筋の道を詠んだにすぎない、といっているが、下句の陳思が初句の「あかあかと」の形容と相まって道の意味を形而上へ引き上げる作用を果たしているので、読者は茂吉が極めようとしているなにか崇高な目的なり生き方を感得してしまう。また、次の二首も現実の道でもあり、形而上的でもある。

 いづこにも貧しき路がよこたはり神の遊びのごとく白梅
                  玉城 徹『馬の首』
 ここ去りて漂いゆかん道もなし膝つきてひくき水飲みにけり
               馬場あき子『桜花伝承』