天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

幻想の父(10/12)

歌集『天變の書』

■自分が父になった場合はどうか。
 父となりて父を憶へば麒麟手(きりんで)の鉢をあふるる十月の水
                         『天變の書』
麒麟手の鉢とは、首の細長い鉢であろう。そこに十月の水があふれる。自分が子を持って父のことを想う複雑な気持を象徴した下句である。この父とは、息子の青史のことか。
 父と呼ばれてはや四十年あはあはと飛龍豆(ひりやうづ)の銀杏(ぎんなん)
 を噛みをり                     『魔王』


塚本が実際に父となったのは二十九歳の時。この歌は七十歳頃に作られたので実情であろう。がんもどきに入っている銀杏を噛みながらの感懐。飛龍豆という所に拘りがある。
 魔王たるわれ一男の父として音楽を呪ひつつ愛する 『詩魂玲瓏』


塚本の実際に即して鑑賞するなら、一男とは息子・青史であろう。魔王に、ゲーテ作詞、シューベルト作曲の歌曲を匂わせたか。音楽とはクラシックのことか。造詣の深かったシャンソンを呪うわけはないはず。