天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

母を詠む(12/12)

  金木犀香り漂う前庭に窓開けはなち母を逝かしむ
                      田島定爾
  戦死せし父の墓へと母葬り長き歳月埋めまゐらせむ
                    小久保みよ子
  七夕に母よデートをしませんか二歳で別れたかなしみ聴きます
                     布施隆三郎
  梅の咲く湖畔に母をいざなひぬわれはこの背に負はれたりしか
                      上田善朗
  つかまりて大地に立たむをさなごのさまにつかまり母坐りゆく
                      中野昭子
  施設へと戻りし日のまま日めくりは年を越したり母の小部屋は
                      林本政夫
  意地悪もいひつつ洗ひやりし日の母の頭を指は記憶す
                      下田秀枝

[注]「母を詠む」シリーズの作品群は、涙なくしては読めないものであった。余分な注釈は不要であったろう。

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金木犀

 

母を詠む(11/12)

   黒びかりせし鯨尺和箪笥の底に母ある如く眠らす
                     山田さくら
鯨尺: 江戸時代から、反物を測るのに用いられてきた和裁用の物差し。1尺は約38センチ。

  車椅子に乗りたる母を抱き上げて散り来る桜の光を纏ふ
                     小野亜洲子
  赤き赤き大きな梅干しひとつ載せ食済ませたり母の一椀
                     梅内美華子
  てのひらを窪め待ちいる母の手に錠剤五つ並べて置きぬ
                     楊井佳代子
  弟に抱きて欲しと母せがみ心満てるか次の日に逝く
                      渡辺純子
  マリオネットの糸放したるごとくにもふはりと母がくづほれてゆく
                      中野冴子
*マリオネット: 人形劇でよく使われる糸で操る人形(糸繰り人形)。

  海鳴りを遠く聴く夜はもの寂し来迎待つとふ母を想ひて
                      南 丘華
  わさびの芽浸しながるる泉にて母の末期(まつご)の水を汲みたり
                      小谷 稔
  かくて母はわれの面輪に存(なが)らふる夜の鏡に髪梳きをれば
                      米田律子

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和箪笥

母を詠む(10/12)

  花の色定かに見えぬと言う母の車椅子押す合歓の花まで
                      佐藤洋
  我を生みし母の骨片冷えをらむとほき一墓下(いちぼか)一壺中(いちこちゆう)にて
                      高野公彦
  停まる度に駅の名を問ふ母の掌にくれなゐ薄き鱒鮨を載す
                      志野暁子
*鱒鮨: 富山県の郷土料理で、駅弁としても有名。

  母の視線断つごと我の閉めたりし障子の中にさよならの声
                      川崎勝信
  睦まじき夫婦なりしが盲従の母にをみなのあはれ見て来し
                      田野 陽
  こゑほそくうたふ軍歌はまぎれなく父待つ夜の母のうたごゑ
                     一ノ関忠人
  健康に恵まれざりし母のため志したる医の道なりき
                     草野源一郎
  「二十歳(はたち)後家(ごけ)」つらぬく母がミシン踏む音を夜毎に聞きて育ちぬ
                      石田容子
  振り向かず帰れと送りくるる母振り向けば樹となりて立ちおり
                     木造美智子
  わが服の襟(えり)につきゐし糸くづを払ひそのまま見送れる母
                      神作光一

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鱒鮨

母を詠む(9/12)

  秋草の花咲く道に別れしがとぼとぼと母は帰りゆくなり
                      岡野弘彦
  夕まぐれ涙は垂るる桜井の駅のわかれを母がうたへば
                      岡野弘彦
  長夜の闇にまぎれ入らんとする母を引戻し引戻しわれはぼろぼろ
                     山本かね子
  生きものを飼はなくなりて内外(うちそと)の清(す)みゆく家に母は火を継ぐ
                      柏崎驍二
  いく日会わねばいく日を言いて白桃のつゆのしとどを母と分つも
                      新免君子
  われを捨てて母の去りたる夜の汽車が今も雪夜を走りて止まぬ
                      鈴木鶴江
  うすら陽は母が常臥せし跡しるき畳を照らし我を照らせり
                     山中登久子
  掌に載せて慈姑(くわゐ)のいろをこよなしといひたる母は死期近かりき
                     浅野まり子
慈姑: 中国南部が原産地という。日本へは平安時代には伝わっていたらしい。

  眠りゐると思ひし母が目をあけて病み痩せし掌をかざしてゐたり
                     佐々木允子
  母がそこに眠れる如きゆたかさに白き牡丹が昼を咲きおり
                      三井 修

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慈姑

母を詠む(8/12)

  母を率(ゐ)て旅ゆく島にバスを待ついま母ひとり母の子ひとり
                     小野興二郎
  蓑笠に甲(よろ)へる母のいでたちのまぶたを去らず雨の日ごろは
                     小野興二郎
  野に唄ふことなくなりてわが許に住む母とみに老い給ひけり
                      高橋俊之
  カラスなぜ鳴くやゆうぐれ裏庭に母が血を吐く血は土に沁む
                      永田和宏
  呼び寄せることもできねば遠くより母が唄えり風に痩せつつ
                      永田和宏
  雪卍卍の空と見ほほけてゐたり母逝く朝とも知らず
                      大塚陽子
*作者は、雪をめでたいものとして空を見上げていたのだろうか。その朝に母が亡くなったのだ。

  娘(こ)の衣(きぬ)の身丈肩裄そらんじて母います小さき灯(あか)りのやうに
                      高尾文子
  振り向けば帰りゆく母の灯(ひ)山に入りぬ送られてわが登校の未明
                     多田美津子
  やむを得ずわれを捨てたらん母もあはれ死して十余年今におもへば
                      井上正一
  やうやくに落着き出でて亡骸となりたる母の爪切りてをり
                      小田朝雄

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蓑笠

母を詠む(7/12)

  腰たたぬ故に畳をいざる母たたみ冷きを今日は言ふなり
                     田中子之吉
  ぬばたまの黒羽蜻蛉(あきつ)は水の上母に見えねば告ぐることなし
                      斉藤 史
  駆け落ちの母若くしてかくれたる部落は小さく峠の下にあり
                      土屋文明
*幼少期の土屋文明の家庭環境は悲惨なものであったようだ。伊藤左千夫の好意で東大に進学して以降は、才能が存分に発揮され100歳の長寿を全うした。

  母の齢(よわい)はるかに越えて結(ゆ)う髪や流離に向かう朝のごときか
                     馬場あき子
  夭死せし母のほほえみ空にみちわれに尾花の髪白みそむ
                     馬場あき子
  母はもう植物なれば静かなる青き心を眼に澄ましゐつ
                     馬場あき子
  この縁に手をつき母の泣きしなり手型のごとき庭の檜扇
                      芝谷幸子
*檜扇: この歌の場合は、アヤメ科の多年草を指す。剣形の葉が2列に互生し、扇形に広がる。

  みがかれし大黒柱にしむなみだ母のもまた妻のもあらむ
                     小西久二郎
  母の背はぬくとしあつし雪ふぶく角巻のなかわれはいずこへ
                      佐野昇平

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黒羽蜻蛉

母を詠む(6/12)

  秋草の花咲く道に別れしがとぼとぼと母は帰りゆくなり
                      岡野弘彦
  石仏に似し母をすてて何なさむ道せまく繁る狐の剃刀
                      前登志夫
*狐の剃刀: ヒガンバナ科の多年生草本球根植物。盆の頃に花茎を 数十センチほど伸ばし、枝分かれした先にいくつかの花を咲かせる。

  おろかなる母の日課よ朝々を父の写真の前に紅茶置く
                     佐佐木幸綱
  急ぎ嫁(ゆ)くなと臨終(いまは)に吾に言ひましき如何にかなしき母なりしかも
                     富小路禎子
  秋菜漬ける母のうしろの暗がりにハイネ売りきし手を垂れており
                      寺山修司
  ひとよりもおくれて笑うわれの母 一本の樅の木に日があたる
                      寺山修司
  売られたる夜の冬田へ一人来て埋めゆく母の真赤な櫛を
                      寺山修司
  皺ばみて塩ふく梅は笊(ざる)のうへ母の一生(ひとよ)と重ねをりたり
                      内田紀満


[註]寺山修司が詠んだ母の歌は、父の歌と同程度の67首(全歌数714首の9.4%)。

 

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狐の剃刀