天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

短歌人・横浜歌会2月

A 題詠「駅」


  わらひ声たえぬ喪服のをんなたち鎌倉駅にうつむき降りる 〈岡田〉
*喪服の女達が周囲もはばからず笑っている情景は、読者に先ず異様で不謹慎な
 感じを与える。それが葬式があるらしい鎌倉駅にくると饒舌をやめてしおらしく
 降りてゆくという。人間には他人が死ぬとほがらかになる一面の深層心理があるが、
 それをえぐっている歌である。


  よこすか駅は海に向きおりいつまでも戻ることなき英霊のため 〈金沢〉
*軍港としての横須賀、ここから軍艦に乗って戦場に向かい、海の藻屑と消えた兵士達の
 英霊を悼む気持を横須賀駅に託した。「海に向きおり」の軽い擬人化にそれが表れて
 いる。但し、「いつまでも戻ることなき英霊」というと、英霊は皆戻らないのか、と
 いった疑問も誘起しかねないので、表現を更に工夫したいところ。
 よこすか、とひらがなにした理由がわからない、漢字にすべきとの意見が大勢。


  こもごもの出会ひと別れの人を見て黙したままを駅といふなり 〈由布
*駅を定義した概念的の歌であり、ポイントである下句の断定に好き嫌いが出る。
 断定されるとかってに決めるな、という反発を買うらしい。しかし、概念的な歌では、
 この断定こそが要になる。黙したたまま、という擬人法がロマンチックな雰囲気を
 かもし出している。


  紺ソクとルーズでわかれる女子高生北鎌倉の駅をすぎゆく 〈高澤〉
*北鎌倉の駅に必然性がない、他の駅でもよくある、との意見が多かったが、
 はたしてそうか?北鎌倉には、高校がいくつかあり、生徒の服装態度から校風も
 感じ取れる。で、それも別に北鎌倉には限らないし、どこの町でも同様なこと。
 北鎌倉と聞いた時に、禅宗が支配する寺の町だから高校生もまじめで清楚なの
 だろうという先入観をもつなら、地名の効果があることになる。


  ホホホホとコンビナートの煙立ち根岸の駅は海を失ふ 〈川井〉
*初句のオノマトペは楽しい感じを与えるので、作者の思い・感慨がどこに
 あるのか曖昧になる。また、煙が立つために海が見えないので海を失うと
 いうようにも読める作りになっているので表現に工夫がほしい。


  セネガルダカール駅舎乗り降りの黒人かいな太くたくまし 〈酒井〉
*「セネガルダカール駅舎」と言われても大半の人にはイメージが湧かない。
 ここが映像を見て詠む歌の弱点になる。唯一、駅舎という言葉がひなびた感じの
 駅なのだろうなと想像させる。駅が主題なので、太くたくましい腕の黒人達が
 乗り降りするひなびた駅という流れに、言葉の順序を工夫する必要がある。


  葉山駅は何線かと数人の人に聞かれて三十年過ぐ 〈若林〉
*葉山駅などという駅は無いことを知っている、あるいは、「葉山駅」って
 あったっけ、と疑問を持つ人にのみ面白みが伝わる歌。そうでなければ、
 何故こんなことが歌になるのか、とそのまま読み過ぎてしまうのが通例であろう。


  駅前のビデオ屋さんに寄り道すうふふ暮らしの楽しみである 〈青柳〉
*「うふふ暮らし」という作者の造語かと思いきや、うふふで切りたいとの
 こと。それでは作りが悪いことになる。一字空けにすること。


  通過するのみの駅なりいつも亡き人によく似る人が立つ 〈平野〉
*結句字足らずで、通過する電車のスピード感に合わせる技法かと読んだが、
 作者の意図は、「いつも」と三句を三音にしたいとのこと。そのように読ませる
 には、やはり「いつも」の後を一字空けにすべき。情景としては類型的との意見
 が出た。


  駅弁の蓋の飯つぶ口に入れのぞみとともに長門への旅 〈村田〉
*新幹線の「のぞみ」と望みとを掛けていることは見やすいが、そうすると長門
 に何かの望みを抱いてゆくことになるので、長門に地名が喚起する歴史的・
 政治的背景との関係で何を言おうとしているのかわからなくなる。上句が好評
 であった。


  流産の憂き目にあひし子をまてば手をふつてくる茅ヶ崎の駅 〈秋田〉
*「憂き目」がマズイとの意見が出た。「茅ヶ崎の駅」は好評。



B 自由詠

  野のばらは野ばらと言はれ落ちつきぬこの夕景の鎮みて紅し 〈由布
*夕日が沈む野に咲いている薔薇を見て、まさに「野ばら」というにふさわしい、
 と実感した感慨の歌らしいが、結句の「紅し」が薔薇の色がそもそもどうなのか、
 紛らわしくしている。感慨を阻害する要因になる。


  夢はとおく白い帆にのって消えてゆくレリーフゆ見ゆ裕ちゃん灯台 〈秋田〉
*解りやすくてよい、道具が揃いすぎ、裕ちゃんだから許せる、などの意見が
 出た。


  古き良き時代のはづれに立ちどまり西と東を探してゐたり 〈若林〉
*観念的過ぎてまた手がかりも無いので読み取れない。西とか東より、右とか左
 の方がわかりよいのでは、など。


  ビルの下過ぐるはやち疾風にうつむける人は賢治のマントをかざす 〈岡田〉
*林立するビルの谷間に吹くいわゆるビル風であり、思わぬ力で吹く。
 結句の「かざす」が、頭にかぶるという意味もあるらしいが、わかりにくい。


  白椿かくまで育ち飢餓知らぬ日本のひじ泥にほとりとおつる 〈酒井〉
*アフガンやイラクのような荒廃した大地と比較するにつけても、というような
 ニュアンスが隠されていると読む。四季の巡る日本の大地は豊かで、木々は飢え
 を知らない。庭の白椿が泥の中にほとりと落ちた。


  捨て台詞はきて別れし駅の燈が雫のごとく車窓をすぎる 〈金沢〉
*「別れし」は過去なので、昔捨て台詞を吐いて喧嘩別れした駅を、夜になった
 今通り過ぎる、と読む。しかし、ついいましがた喧嘩別れしてきた駅を電車に乗
 って離れていく、とも読めなくはないので、あいまいさが残る。別れし駅とくる
 とつきすぎなので、「別れし」をべつの言葉にしたほうがよい、との意見あり。


  擁壁の上にひらりとシャツを干す家ひとは危ふく今日を生きゐる〈川井〉
*「上に」とか「家」とかはわざわざ言わなくともわかるので、別の言い方に。


  楽しみの韓国ドラマああついにハッピーエンドうれしい夜よ 〈青柳〉
*「韓国ドラマ」ではあまりにも一般的であり、迫力・リアリティに欠ける。
 具体的なドラマ名例えば、「冬のソナタは」とかを入れるべき。


  朝焼けに凍る線路が伸びる果て貨物列車か汽笛の響き 〈村田〉
*一首の中で視覚と聴覚を同居させるのはよくないという意見。初句の「に」は
 原因の助詞のようにもとられるのでこの場合まずい。つまり、焼けと凍るとの関
 係が生じるためである。また「伸びる」ではなく、「続く」としたい。汽笛の響
 きという言い方も意味的にダブルのでやめたい。


  「冬の」とふ言葉をおくる冬の妻冬のサイダー冬の名画座 〈高澤〉
*二句目で一字空けるべき。韓流ブームの先駆けとなった「冬のソナタ」という
 映画を背景にしているので、今だからわかるという面もある。妻、サイダー、
 名画座という三つの関連があるのかないのか、読み取れないので、面白みが湧いて
 こない。


  階段の窪み窪みにすみれ咲きジーンズの裾さやりつつゆく 〈平野〉
*階段というより石段としたほうがリアリティがでる。「窪み窪み」という字が
 目立ちすぎるので、片方を平仮名にするとかすべき。