天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

作歌の現場(続)

  佛は常にいませども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、
  ほのかに夢に見え給ふ。
  彌陀の御顔は秋の月、青蓮の眼は夏の池、四十の歯ぐきは冬の雪、
  三十二相春の花


この二連は、『梁塵秘抄』巻二から抜いたもの。仏教ならびにさまざまの経典の有難味を称える法文歌、神歌で埋め尽くされている。『梁塵秘抄』は、概ね七五句の繰り返しである。白秋の歌集『雲母集』は、三浦半島三崎の生活から生まれたものだが、姦通の罪で監獄に収監された後、やっと出獄して新生活を始めた時代であり、自然の神秘、原始の力に惹かれ生まれ変わろうとしていた。哲学者の公田連太郎を頼り、彼の所蔵の本を借りて読んだ。その中に、佐々木信綱によってまとめられ発行されたばかりの『梁塵秘抄』があった。ふたりで謡い方まで話し合ったという。
『雲母集』には次のような短歌がある。
  ここに来て梁塵秘抄讀むときは金色光のさす心地する
  耳澄ませば闇の夜天をしろしめす図り知られぬものの声すも
  網の目に閻浮檀金の仏ゐて光りかがやく秋の夕ぐれ
  生馬の命かしこみ旃陀羅が火を点けむとす空の高きに
心情として『梁塵秘抄』の影響はあきらかであろう。
次は、『閑吟集』の一節。
  人の心は知られずや 真実 心は知られずや


そして『雲母集』には、
  生めよ殖えよしんじつ食(くら)ひいきいきと生(いき)のいのちに
  相触れよ豚よ
  五郎作よしんじつ不愍と思ふならば豚を豚として転がして置け
  目の前にしんじつかかる一本の青木立てりと知らざりしかな
というように、「しんじつ」を入れた歌がある。これは、『閑吟集』における使い方と同じである。
だが、応用された結果は、あくまで白秋独自の魅力ある作品になっている。まさに温故知新とはこれであろう。