天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

懐の深い表現

 ついでに「短歌人」三月号掲載の小池光の作品から彼の特徴を見てみよう。表面的には決して難しくない。だが、動詞、助詞・助動詞の使い方、名詞の取り合わせなど措辞になにげない工夫がされていて、読者を立ち止まらせる謎を含んでいる。鑑賞するときに懐の深さを感じて、だんだん名歌に思われてくるのである。

A みつまたのつぼみつんつん撥ねかへり寒風さへもたのしき如し
B 黄庭堅死後九百年の書のまへにからだをはこびふかく息すふ
C ユリノキの巨いなる木を前にする国立博物館風の一日


A:なにも難しいところはない。では、どこがいいんだ? 寒風を
  楽しんでいるようなのは誰だ?作者なのか みつまたなのか? 
  もちろん両者である。結句が平凡のようで読者を立ち止まら
  せるのである。
B:国立博物館で開催の王義之や空海など書の名品展を見に行った
  折の作品であろう。次の歌もそうである。一読、下句に
  ひっかかるはず。当たり前の行為なのに、まともに客観的に
  表現すると読者には強い印象を与える効果があるのだ。
  短歌におけるこのあたりの呼吸は、茂吉に学んだと思われる。
  「死後九百年の書」と「ふかく息すふ」とが響きあう。
C:国立博物館を訪れた人は、前庭の大きな木に先ずは気づくはず。
  何の木だろうと近づくとユリノキの立札がある。秋は大きな
  黄葉がみごとだし、その落葉も豪快である。「巨いなる木」
  「国立博物館」「風の一日」これら名詞句の取り合わせで
  もう詩を感じるのである。