天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

面白い歌

 午後一時から短歌人の横浜歌会なので、例のごとく昼前の時間を円覚寺ですごす。

  色あはく日本の初夏に咲き出でしうんなん萩の姿はかなき
  ぼたん咲く八千代聖代両脇に黒光司金色の蘂

     鶯の声みづみづし谷戸の朝
     みどりさす画帳をのぞく円覚寺
     薫風の唐門描く女学生
     緑陰の画帳に走る黒き線


 歌会での今回の題詠は「気象用語」。広くあいまいなので多様な言葉がでてくるかと思ったが、案外平凡。代りに内容として面白い歌があった。

  青嵐ふきすぎゆかばリラの下のつそりよぎる漱石の猫
  *「漱石の猫」とはなんだ?小説「我輩は猫である」の
   主人公は、黒猫らしい。リラの下を黒猫がよぎったの
   だが、ここでもしリラの花と葉を吹き散らすような青嵐
   でもくれば、小説のような場面になる、と思ったか。
   あるいはたまたまリラの木を前にして「我輩は猫である
   を読んでいる時、目の前を猫がよぎったのだが、ここで
   もし青嵐でも吹けば、小説の場面になるのだが、と感じた。
   なんともおしゃれな言葉使いであり、イメージである。


  菜種梅雨は春のレントゲン白シャツのふたりさらされ魂(こん)
  まであらは
  *一読して、雨に濡れた白シャツに裸体が透けて見える場面
   だと、理解できるかどうか、が鑑賞の要点。なかなか新鮮
   な感覚である。二箇所で注文がついた。まず「魂(こん)まで
   あらは」は言いすぎ。次に、菜種梅雨と春とは重なるので、
   なんとかしたい。「春のレントゲン」がおしゃれなので、
   生かしたい。


  おたくのが遊びにくるとほほゑまれいまだ見ぬ猫われに
  ゐるらし
  *隣の人から作者は猫を飼っていると誤解されているのだ。
   結句がなぞめく措辞になっている。作者の分身が猫になって
   隣に歓迎されているようななまめいたイメージも伴う。
   「うちにゐるらし」では、謎は生まれない。
   初句を「お宅のご主人が」と思ってしまった、という爆笑の
   話も飛び出した。


  口一杯春の日射しを享けをりぬ湘南の海の砂に寝ころび
  *海岸の砂に寝ころんだら通常全身で日射しを受けるもの。
   それをあんぐり開けた口一杯に、としたところに尋常でない
   イメージが生まれる。また「享ける」という字は、大切なもの
   を授かる、あるいは堪能する、といった感じを与える。さらに
   さらにロマンに満ちた湘南の海との対比が情景を際立たせる。
   良いと評価する読者もいれば、やりすぎでダメという読者も
   いるはず。


 巨人―中日戦のテレビを見ながら、この文章を打ち込んでいたら、なんと巨人の二岡選手が史上初の二連続満塁ホームランを打った。しかも今日は一試合に三本塁打している。