言いさすとは、言いかけて途中でやめる行為であり、行く先を読者にゆだねる文型である。読者が行く先の言葉を容易に想像できないと、歌は難解になる。万葉集や古今和歌集では、結句語尾に「なくに」「ものを」「に」「を」「つつ」といった助詞をよく使っているが、詠嘆や婉曲の表現でも淡く言いさした形になっている。
かむかぜ神風の伊勢の国にもあらましをなにしかき来けむ君も
あらなくに 『万葉集』
たらち足乳ねの母がそれか養ふくはこ桑すら願へばきぬ衣にけ
着すといふものを 『万葉集』
おもふどち春の山辺に打ちむれて そこともいはぬ旅寝してしが
『古今和歌集』
思ひつつぬればや人の見えつらん 夢と知りせばさめざらましを
『古今和歌集』
万葉集から、深い言いさしの例を二首採ってみよう。
蘆刈りに堀江漕ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに
月数(よ)めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか
結句の下にそれぞれ、「響く」とか「いう」といった動詞を省略している。
言いさし・省略は、現代短歌になってから俄然、深く複雑になった。それを理解するには、結句語尾の助詞を除いた時、どれだけ意味的に完結しているか、を見てみるとよい。
恋のうた我には無くて 短歌とふ艶なる衣まとひそめしが
斎藤 史
棒高跳の青年天(そら)につき刺さる一瞬のみづみづしき罰を
塚本邦雄
しろがねの夢よ、乳房よ、白桃よ、わが渺茫の山河をゆくに
福島泰樹
これらの例で、それぞれ「が」「を」「に」を除いても、意味的にはほぼ完結しているので、深い言いさしとまではいえない。
短歌において言いさしを徹底し、新しい文型を探った現代歌人が藤原龍一郎である。彼のどの歌集をとっても容易にその例をあげることができる。
熱血のまさにその血は熱くして力は正義、されば正義を
『東京哀傷歌』
とは言えど三十余年われは在りその不思議さも昼のウナギも
『夢みる頃を過ぎても』
オレンジ・カード千円分の逃亡をさもなくばわが詩的悲傷を
『19xx』
文学の超越性の衰弱を螺旋思考の終りに置けば
『切断』
職業という業を負い死の日まで詩に生きるとぞ、その逆説も
『花束で殴る』
これほど徹底して「を」止めの文体、言いさしの文体を駆使した歌人は古来稀である。