大伴家持(6)
多田一臣著『大伴家持』を読み進めていて、ちょっと違んじゃないの、と思うところがいくつかある。常に都を恋しく思い、越中の国を鄙・異土と見て方言を風俗として歌に詠んだという観点である。だが、家持が取り上げた方言や地名は、大変美しい音感をもっているのだ。鄙にもこんな魅力的な言葉があるということを地元の人たちにも都の人達にも知ってもらいたかった、と理解したい。例えば次のような歌。
東風(あゆのかぜ)いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ
隠る見ゆ
朝床に聞けば遥けし射水河朝漕ぎしつつ唄ふ船人
東風をあゆのかぜと呼ぶにせよ地名の射水河にせよ実に美しい。国誉めの歌ではないか。家持に仕えた地元の人々には、国司が歌に詠んでくれたことで誇りに思ったはず。
さらに万葉学者の中西進の論文を背景に、次のような越中秀吟が奈良の都を思い描いた幻想の歌だという。
春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ
もののふの八十をとめらが汲みまがふ寺井の上の堅香子
(かたかご)の花
多田が言うには、越中の桃の花の下には少女なぞいなかった、また堅香子の花は見たが、寺井もをとめらも都の情景として想像したもの だと。はたしてそうか?
律令国家を目指す大和朝廷は、平定した国々に国庁をおき、国分寺・国分尼寺を建て、各国を繁栄させることで日本の富国強兵を図った。現代から国庁跡、国分寺跡を見ても当時の規模は大変なものであったことが容易に想像でき、国司も天皇に代わってその国を治めるという自負があり、地元民も国庁に娘なり息子を勤めさせたい、と思ったはずである。都へ出仕する候補者を含めてかなり多くの乙女たちが国庁の近辺で働いており、容易に家持の目にもとまったはずである。
考古学を踏まえた歌の解釈が望まれる。