短歌における〈私〉5
今回の話はわが試論・仮説である。
短歌における〈私〉を直感的に分類すると、次ぎのように三グループになろう。おおまかな特徴と例歌をあげる。歌人は状況に応じて、作り分けるので、グループ分けすることは無理だが、歌を仕分けることはある程度可能である。ある程度としたのは、高度な「喩」の技法を使った歌では、どのグループに入れてよいか判断が難しくなるからである。
1.絶対的な〈私〉: ストーリィも固有名詞も現実。特異性・
個別性があるので、難解になることも多い。
ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ
斎藤茂吉
反体制的キャスティングの妙にして警官たこ八郎の勇姿は
藤原龍一郎
2.相対的な〈私〉: 一般名詞を使うとか固有名詞が架空になる
場合が多い。読者と体験・実感を共有するかのような共感を呼ぶ。
幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
若山牧水
佐野朋子のばかころしたろと思ひつつ教室へ行きしが佐野朋子
をらず 小池 光
3.虚構の〈私〉: ストーリィも固有名詞も架空であることが
多い。ドラマ性が強い。本歌取りの手法では、時に知識を必要
とするので、深い鑑賞が難しくなることも。
亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり
寺山修司
ロミオ洋品店春服の青年像下半身無し***さらば青春
塚本邦雄
〈私〉と「喩」の技法との関係を詳しく論じることは、今後のテーマである。例えば、岡井隆は盛んに「喩」を使うが、歌は多分に「絶対的な〈私〉」のグループに属するようである。もちろん「虚構の〈私〉」のグループに入るものもある。しっかりした鑑賞に基くことが前提なので、大変チェレンジングなテーマになる。岡井隆の作品から、それぞれのグループに属する例をあげておく。
1.肺尖にひとつ昼顔の花燃ゆと告げんとしつつたわむ言葉は
2.逃げて来た状況のなかへひきかえすひたすら好奇心の縞馬
3.あぶらかがよう熱き肉塊をぼうとして見ているアナーキストの阿呆