天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

映画手法と詩

ヤブラン

 言うまでもなく映画は映像の連続したものである。映画が考案されて以来、その映像の編集作業全般をモンタージュと呼んだ。その後、特に映像に意味や観念をもたせるための構成方法に限定した言葉になった。1910年以降、映画理論の中心になった。グリフィス、ガンス、エイゼンシュタイン、プドフキンなどが推進した。
 一方、詩は言葉の組み合わせである。読者は言葉が喚起するイメージと韻律で詩を楽しむ。つまり、詩にはイメージの連続・組み合わせ という側面がある。モダニズムの詩人たちは、ここに映画理論を導入した(シネ・ポエム)。俳句の分野でも例外ではなく、山口誓子の試みがよく知られている。連作俳句に、プドフキンのモンタージュ「連鎖法」を、また一句の構成法には、エイゼンシュタインの「衝撃法」を応用した。誓子の連作俳句作品「大阪駅構内」が典型例である。その中に、次の有名句がある。


      夏草に汽罐車の車輪来て止る


 連作俳句について、「俳句四季」9月号に川名 大が書いている記事が参考になる。
注意しなければならないことは、日本には古くから連歌連句があり、そこですでに実質的にモンタージュ法が駆使されていたことである。西欧の理論を振りかざして新風だと主張するのは当たらない、と思う。念のために、以下に復習しておこう。
 連句では、5・7・5の長句に7・7の短句をつけ、以下長短交互に一定の様式に従って連作する。どのように次の句をつけるかという付け合いの味わいを中心として、時代・流派により作法が異なる。貞門の物付(言葉上の関連性による)、談林派の心付(意味の関連)から蕉風の匂付(前句の余情に応じる)へと発展した。