天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

歌人たちの鎌倉5

報国寺の利玄歌碑

 吉井勇は幼少期を材木座の別荘ですごした。そこから鎌倉師範附属小学校にかよった。東京に移ってからも転地療養で鎌倉を訪れた。例えば次の歌がある。

  鎌倉の海のごとくにひるがへる青草に寝て君を
  おもはむ


木下利玄は、大正八年に大町にやってきた。それから大正十四年、三十九歳で亡くなるまでをこの地で暮した。例えば次の歌がある。

  歩き来て北条氏果てし岩穴のひややけきからに古(いにしへ)
  おもほゆ
  

ところがこの歌の碑を報国寺の庭に建てる際に、住職が次のように変えてしまった。

  あるき来てもののふ果てし岩穴のひやけきからにいにしへおもほゆ


つまり、「北条氏」→「もののふ」、「ひややけき」→「ひやけき」という表記に変えてしまったのだが、歌壇から本来の歌意を著しく損なうものだと批判されたらしい。確かに迫力が失われている。ただ、住職のために弁ずれば、北条氏と戦って死んだ新田軍の兵士もいっしょに弔いたかった。また、「ひやけき」という日本語はないが、四句を七音に納めて読みやすくしたかった。
 なお、庭には、両軍の戦死者を弔う住職自身の歌碑を建てている。