「こがらし」の句
中西進『美しい日本語の風景』を読んでいて、「こがらし」の項で、次の句に出遭った。
こがらしの 果はありけり 海の音
池西言水
江戸時代の俳人については、芭蕉、蕪村、一茶など有名人しかしらないので、別途、池西言水のことを調べてみた。池西言水は江戸期の俳人、奈良に生れたが、9歳の時江戸に出た。芭蕉たちとの交友もあった。この句により池西言水は、「こがらしの言水」という異名をとった。どこかで聞いたような気もする。
以下は、わが不明を晒す話。現代では次の誓子作品が有名である。
海に出て木枯帰るところなし
山口誓子
ふたつの句はそっくりではないか。違いといえば、果があるのと帰るところなしとである。中西進は、言水の句を引いているのみで、誓子の句には一切言及していない。
両句を比べれば、明らかに、誓子の句は言水の句の換骨奪胎、本歌取である。
言水の句: 陸では、凄まじい勢いで吹いていた木枯だが、海上では
海の音に吸収されて、木枯が消え果てたように思えた。
理に落ちているが実感であろう。陽性で安定した心情。
誓子の句: 擬人化され象徴性が強い知性の句。陰性で悲観的な心情。
先の大戦で海に散った特攻兵士を想って詠んだ句と言われ
ている。だが、こうした付属情報は、一句の評価に入れる
べきでないだろう。
例えば、芭蕉の名句「夏草や兵共が夢の跡」を思えばよい。
「奥の細道」を知らなくても評価が高い。
[追伸] たまたま飯田龍太全集の内、第七巻の「俳論・俳話Ⅰ」を
読んでいたら、「俳句遠近」という章の「類想を越えるとき」
の項で、両者の句が出ていた。龍太は、作品が前者をしのいだら
問題はない、として誓子の句の方が良いと評価している。
言水の作には、少々理屈がある、という。