川田 順
よく遊びに行く藤沢の遊行寺に、歌人・川田 順が一遍上人像を賛仰した次のような長歌の碑がある。
糞掃衣すその短く臑もあらはに
わらんちも穿かぬ素足は国々の道の長手の
土をふみ石をふみ来てにしみたる血さえ見ゆかに
いたましく頬こけおちておとかひもしゃくれ尖るを
眉は長く目見の静けくたひなき敬虔をもて
合わせたる掌のさきよりは光さえ放つと見ゆれ
伊豫の國伊佐庭の山のみ湯に来て為すこともなく
日を重ね吾は遊をこの郷に生まれなからも
このみ湯に浸るひまなく西へ行き東へ往きて
念仏して勧化したまふみすかたを
ここに残せる一遍上人
川田 順は、明治十五年に東京の下谷に庶子として生まれた。しかし、庶子の出とはいえ、その後の努力は大したもので、東大法科卒、住友総本店に入社、常務理事にまで昇った。歌人としては、「心の花」に所属、「新古今集」の研究、皇太子(現天皇)の作歌指導や歌会始選者を務めた。一方で、老いてから京大教授夫人の鈴鹿俊子と不倫関係になり、自殺未遂までいき、67歳にして結婚した。晩年は、藤沢市辻堂に移り住み、昭和41年に亡くなった。その墓は、北鎌倉の東慶寺にある。惹かれる歌を二、三あげておこう。
いにしへの恋の曽根崎蜆橋夜霧のなかの人どほりかな
うつし世にそはれぬ二人よりそひてしばし影みる山の井の水
山もとの当麻の村の夕けぶり野道を行くにいつまでも見ゆ
大比叡や横川の杉の朝あらし一つの鷹を高く翔ばしむ
今、遊行寺境内の大公孫樹の黄葉が見事である。
西方に手を合はせたる銅像の影を濃くせり公孫樹のもみぢ
黄葉のなりて朝日にかがやける大き公孫樹は青空の下