天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(11)―

講談社刊

    去年今年貫く棒の如きもの       高浜虚子


山本健吉昭和二十五年十二月二十日作。新年放送のために作られたもの。・・・旧年・新年を通しての一つの感慨が、「貫く棒の如きもの」という表現を生んだ。・・作者の感慨が、・・具体的なイメージとして提出される。・・・一本の棒のように、かくべつの波瀾もない過ぎゆく月日が存在するだけである。老虚子会心の作であろう。
[川名 大]・・・「去年今年」とは、あわただしく年が暮れ、新しい年を迎える、という俳句独特の意味を持つ新年の季語。去年から今年へとつづく長い時間の流れという意味ではない。では、「棒の如きもの」とは何か。・・・世間と違って、自分には年の瀬も新年もたいした変化は見られない、ということだ。したがって、この比喩の実体は、自分の日常生活、生活態度、生活信条にわたる一貫して変わることのない時間の流れ、そして、その時間意識といっていい。・・・名詞を多用した体言止めで、ぶっきらぼうに突き放した文体も、貫く棒のようなゆるぎない日常性のエネルギーと照応している。
長谷川櫂この句は、去年から今年へと時は速やかに移り変わっても、年と年を棒のように貫いているものがあるというのだ。「棒の如きもの」という図太さがいかにも虚子的であり、随一の代表句とされる所以である。引き合いに出されるものは「棒」だが何が棒のようなのか、肝心の主体が不明のまま。その結果、いったい何が去年今年を貫いているのかは読む人の想像力にゆだねられる。何を思い描くかは読者の器量次第なのだ。傲慢ともいえる虚子の信念をこの句から読みとることもできるだろう。


 この句、どこが良いのかさっぱり分らない、というのが正直な感想であろう。読者が「棒の如きもの」という直喩をどう解釈するかにかかっているのだが、三人の評者の解釈を併せて名句になるだろうか? いかにも虚子らしい、ということは言える。