天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

さまざまな直喩(6/13)

独楽(webから)

直喩表現の多様性(二)
直喩の俳句は、取合せの俳句である。直喩の形態・種類は、多様であるが、それは対象、喩、表現 のそれぞれが、さまざまな形態をとるところに起因する。「対象」や「喩」になるのは、もの・事象・心境である。対象と喩が同類の場合、即ち、ものをものに、事象を事象に対応させる場合には、一読分りやすいが、対応関係が違ったり俳句の字数制限から言葉を省略すると難解になり、奇妙な感じを与えることもある。それぞれの例句をあげる。
     狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉     芭蕉
     島椿学ばざりし明眸吸ふごとし      草田男
芭蕉句では、対象と喩共に人物であって分り易いが、草田男句では、対象が明眸(もの)であり、喩が状況・心象になっていて少し難解。
次に対象が句中に明示される場合とそうでない場合があることを、いくつか例示しよう。
明示される場合
     義朝の心に似たり秋の風          芭蕉
     卯の花の夕べにも似よしかの声       蕪村
初めの句では、秋風が義朝の心に似るという心象。二番目は、卯の花で時鳥を暗示し、その声が響くように、鹿の声も響いてほしい、との呼びかけ。
明示されない場合
     誰やらが形に似たりけさの春        芭蕉
     鍬さげて神農(しんのう)顔やきくの花    一茶
     友に死なれ宗匠じみて秋風に       草田男
     道すがら見し稲扱の手を真似て       誓子
芭蕉の句は、新春に贈られた正月小袖を着てみた時の自分の姿を形容。つまり直喩の対象は、芭蕉自身である。一茶の場合は、見かけた百姓が対象。草田男、誓子の句では、芭蕉句同様それぞれ作者自身を対象にしていると読める。
ちなみに、虚子の慶弔贈答句には、句中に対象が明示されていないものが多いが、前書によって分るようになっている。次に二例をあげる。
        碧梧桐追悼(昭和十二年)
     たとふれば独楽のはぢける如くなり
        紅緑句集に題す(昭和十八年)
     隣り合ふ実梅の如くありし事
慶弔贈答句は、先ず関係者向けに贈るので対象は言わずもがな。しかしその句を一般読者向けの場に出す時には、前書が必要になるのである。