子規の墓
四国愛媛出身の正岡家の墓所は、子規が葬られた東京田端の大龍寺にある。子規居士之墓を中に、向かって右手に正岡八重墓、左手に正岡氏累世墓と三基にまとめられている。こうして見ると正岡一族の墓所は子規を中心に据えて故郷からはるかに離れた東京田端に移したことになる。墓は第二次大戦の東京空襲により焼けて黒ずんでいる。
子規自身がしたためた墓碑の文章が立派な石碑に作り替えられている。(昭和9年版、昭和11年版、平成19年版 と三回)その真筆の文章とは、よく知られた次のものである。
正岡常規又ノ名ハ處之助又ノ名ハ升
又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人
又ノ名ハ竹ノ里人伊豫松山ニ生レ東
京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
馬廻加番タリ、卒ス母大原氏ニ養
ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
□月□日没ス享年三十□月給四十圓
十月の「短歌人」東京歌会が池袋で開催されたついでに、田端の大龍寺を訪ねて上記のことを確かめた。根岸の子規庵には何度か行っていたのだが、子規の墓処は今回が初めてである。
母八重の墓石かたむく秋の雨
糸瓜忌や墓碑に没年月日なし
子規の墓訪れたくて交番に大龍寺までの道筋を問ふ
子規の墓碑真筆なれば没年と月日の数字空白にして
弓手に母馬手に一族いただきて子規は眠れる田端の寺に
肖像とチェロのレリーフ墓碑にあり我の知らざるチェリストの墓
ぎんなんをあまた拾へる老婆あり寺のとなりの八幡神社