天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌篇(23)―

本阿弥書店刊

  つき放(はなさ)れし貨車が夕光(ゆふかげ)に走りつつ寂しき
  までにとどまらずけり         宮 柊二『群鶏』


島田修二比較される歌に「連結をはなれし貨車がやすやすと走りつつ行く線路の上を」佐藤佐太郎がある。それぞれの歌風をそのまま現わしている。つまり佐太郎作品の純粋な客観性に比べて、柊二作品は、濃厚に人間を感じさせる。「夕光」という一語でとらえられた時間空間の中に走り続ける一個の貨車は、作者の心象であるかのように、鮮烈に描きつくされている。(昭和55)

[高野公彦]佐藤佐太郎の「連結をはなれし貨車がやすやすと走りつつ行く線路の上を」と比べると、「やすやすと」に対して「寂しきまでに」、「線路の上を走る」に対して「夕光に走る」。佐太郎は、非情でメカニックな描写に徹している。柊二のほうは、貨車が〈人間の不安、孤独〉といったものを連想させるような作品になっている。(平成13)


*周知のように宮 柊二は北原白秋の一番弟子であり、佐藤佐太郎は斎藤茂吉の弟子であった。この系統から自ずと歌の詠み方にも違いが現れている。わが好みを言えば、佐太郎流の「非情でメカニックな描写」に惹かれる。柊二の歌は、和歌常道の寄物陳思でまことに判り易いが、抒情過多に感じられるのだ。ちなみに評者の島田と高野は共に宮 柊二に師事した白秋系の歌人である。両者の鑑賞は同類だが、高野の解釈が少し具体的。二人に足りない観点は、佐太郎と柊二の歌の韻律の違いである。佐太郎の方は、きっちり57577と正調だが、柊二の方は79577と上句が破調になっている。このあたりにも佐太郎の歌の客観性が感じられる。