天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

ある日の歌会

参考: 結社誌

 「短歌人」七月東京歌会が、去る7月八日午後、池袋にある豊島区生活産業プラザで開催された。ブログではめったに紹介しないのだが、気になる歌とコメントが出たので、それを書き留めておきたい。


  芋の葉にたまりし露をころがしてをさなきころの
  われは遊びき            小池 光


担当の評者が指摘していたように、二つ特徴がある。
(1)文字のバランスがよいこと。つまり、漢字とひらがなが
   ほどよく配置されていて、見た目に快い。
(2)韻律が快いこと。つまり、「ころ」「き」がそれぞれ交互に
   リフレインして響き合っている。

ところでこの歌、次の名句を本歌取していると解釈してみたい。


     芋の露連山影を正しうす    蛇笏


俳句と短歌の対で、山里の遠い昔の生活がイメージされて、一層深い趣が味わえるではないか。
 次ぎの歌。


  工場の音を遠くにひびかせて社会は僕から孤立してゆく
                      木嶋章夫


これも担当の評者が指摘したことに補足して解説しよう。
現代の若者の就職難を詠んだものだろう。「工場の音」が就職先を象徴している。それが遠くにひびくとは、自分には就職が困難ということ。結果、若者は社会から孤立してゆく。そこを社会が僕から孤立してゆくと逆説的に表現して心の平衡を保っているのだ。

 次ぎは、私にコメントを求められた歌。


  枯れかけた義母の時間に光さす体操教室に老ナイスガイ
                      高橋とみ子


「老ナイスガイ」は面白くてよい。ただ他人のことを「枯れかけた」と言ってはいけない(会場笑い)。「光さす」は綺麗に言いすぎたのでは、「時間が艶めく」とか。これに対して、蒔田さくら子さんは、「光さす」ということによって、「枯れかけた」といったことが救われているというご指摘であった。また「老ナイスガイ」はなかなか出てこない言葉でありOKということも。

 最後はわが歌。


  鴎外を乗せたる馬は満州の夕陽に染まる戦野をゆけり


出て来た批評は、想像していたように、満州と夕日の組合せは、すでに言い古されているので良くないということ。また戦野は、銃弾が飛び交う殺し合いの場なので、そこに鴎外がゆくというのはあり得ない。戦野が不適切では。

 私の趣旨を開陳しておく。
過去に満州と夕陽が出て来た場面では、馬賊や野望を抱く革命家・実業家が主人公であった。わが歌では、それを文豪であり医学博士・軍医部長である当時の最高知性のひとり鴎外・森林太郎と取り合わせて、イメージしてみたかったこと。また、戦野というのは、前線指令部や傷病者の宿営の場所を含む山野を意味しており、戦場より広い意味にとっている。鴎外が日露戦争満州の戦野にあったことは、岡井 隆の近著『森鴎外の『うた日記』』でも書かれていることなので、許容されよう。ちなみにこの本は、読み始めてから少し時間がかかったが、この歌会の帰りに電車の中で読了した。