天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(29)―

多太神社にある実盛の兜

     むざんやな甲の下のきりぎりす    芭蕉


 周知のように『奥の細道』の小松という所に出てくる句である。句の前の文を引用する。


  此の所太田の神社に詣づ。実盛が甲、錦の切(きれ)あり。
  住昔源氏に属せしとき、義朝公より賜はらせ給ふとかや。
  げにも平士の物にあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで、
  菊唐草の彫りもの金をちりばめ、龍頭(りうづ)に鍬形打ちたり。
  実盛討死の後、木曾義仲願状にそへて此の社にこめられ侍るよし、
  樋口の次郎が使せし事ども、まのあたり縁紀に見えたり。


芭蕉全句』(小学館)には、次のような短い解説がある。
 小松多太神社にある斎藤別当実盛の兜の下で、蟋蟀が秋の哀れを誘うように鳴く。「むざんやな」は謡曲「実盛」に拠る。


 詳しく背景を述べよう。斎藤実盛平安時代末期の武将。保元・平治の乱において上洛し、源義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え源氏と戦うことになる。その最後は、『平家物語』第七巻七章に述べられている。木曽義仲の軍と戦ったが、老齢と侮られぬように白髪を黒く染めていた。平家軍は破れ敗走するが、最後尾に一騎でとどまり奮戦する。しかし義仲軍の若武者・手塚太郎と戦い、ついに首を取られた。その兜首を検分した木曽義仲は、樋口次郎から斎藤実盛と教えられ、樋口次郎とともに涙を流した。義仲は昔、実盛に命を助けてもらったことがあった。樋口次郎は旧知の仲であった。その兜は『奥の細道』にあるように、義仲の命を受けて樋口次郎が小松の多太神社に奉納した。この兜は現在、国の重要文化財に指定されている。


[注]右上の画像は、小松市観光協会のHP
http://www.komatsuguide.jp/index.php/spot/detail/83/1/2/
   から借用した。