水無瀬離宮址
後鳥羽上皇の水無瀬離宮では、建仁二年九月十三夜の水無瀬殿恋十五首歌合に代表される歌会や白拍子、遊女などを上げての乱交騒ぎまでがあった。後鳥羽院の気ままな振る舞いについては、藤原定家の『明月記』に詳しい。水無瀬殿恋十五首歌合での定家の詠草をいくつかあげておく。
郭公空につたへよ恋ひわびてなくや五月のあやめわかずと
今宵しも月やはあらぬ大かたの秋はならひを人ぞつれなき
俤もまつ夜むなしき別れにてつれなくみゆる有明のそら
つれなきを待つとせしまの春の草かれぬ心のふる里の霜
ゆくへなき宿はととへば涙のみさののわたりのむらさめの空
あらかじめインターネットで場所を地図で確認してから出かけたのだが、タクシーの運転手さんも知らなかった。後鳥羽上皇水無瀬離宮跡という石碑を探したが見つからなかった。後でもう一度インターネットで探したら、広瀬遺跡として発掘調査が行われているらしい。だが尋ねた付近ではそんな場所は見えなかった。離宮は1199年ごろに築かれたが、1216年の洪水に遭い、改めて近くに再建されたらしい。少し離れたところにある水無瀬神宮が離宮の跡という説もある。
今回は無駄足になってしまい、残念でしょうがない。
秋日差水無瀬離宮の跡むなし
白拍子、遊女をあげて水瀬宮陽剣陰壺の乱交の沙汰
尋ね来し水無瀬宮址に碑を探すむぐら茂れる線路の脇に
後鳥羽院、定家ら歌人の集ひける水無瀬の里は電車が通る
[追伸]水無瀬川は、古来歌枕として知られ、万葉集以降数多く詠まれている。後鳥羽院が水無瀬の情景を詠んだと思われる有名な次の歌が、『新古今集』に載っている。
見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ