蕪村の画賛句(11/11)
おわりに
蕪村の俳句は、正岡子規が高く評価してから、近現代において有名になった。ただし俳画については、子規は著書『俳人蕪村』において、「俳画は蕪村の書きはじめしものにして一種摸すべからざるの雅致を存す。しかれども俳画は字のごときもののみ、ついに画にあらず、画を知らざるものこれをもって画となす、取らざるなり。」と書いた。蕪村の俳画を中途半端に終わったとしている。残念ながら、俳画における絵の役割については具体的に考察していない。
蕪村の俳画文化は、広がらなかった。その理由は? 絵は自然・実態を抽象化・部分化したもの。俳句もまたしかり。俳句を見て読者は自分流に実景を想像することは楽しいが、それが眼前の絵でいわば強制されると幻滅する。実景を如何に俳句で表現するかに焦点がある近現代の俳句にとって、絵は邪魔になってしまったのであろう。よって俳画は広まらなかった。以下の良く知られた名句は、蕪村の自画自賛にはない。句だけで読者の存分な想像を掻き立てるのである。以下に示すような名句には、絵など不要である。読者は自由に想像してその現実味を楽しむことができる。
春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな (須磨の浦にて)
月天心貧しき町を通りけり
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉 (絵巻物語的構成)
宿かせと刀投出す吹雪(ふぶき)哉
凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ
御手打の夫婦(めおと)なりしを更衣 (物語的)
ほととぎす平安城を筋違(すじかい)に
菜の花や月は東に日は西に (二句以降は、漢詩や万葉集などで
知られた)
ゆく春やおもたき琵琶の抱心 (漢詩的発想)
ぼたん切(きつ)て気のおとろひしゆふべ哉
さみだれや大河を前に家二軒
しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり (枕頭で門人の松村月渓が
書きとめた句。)
蕪村にとって、絵師としての本業は南宋画であり、俳画は余技であった。蕪村の俳画は子規に感銘を与えなかったが、俳画と関係ない蕪村の絵画的発句は、子規の写生論に大きな影響を与えたと思えるのである。