天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―俳句篇(33)―

岩波新書

 坪内稔典俳人漱石』を読んだ。これは和田茂樹『漱石・子規往復書簡集』 (岩波文庫)にある漱石の句に対する子規の評・添削を中心に、漱石・子規・稔典の三人が俳句作法を語り合う形式のユニークな啓蒙書である。「往復書簡集」の子規の批評や添削では、理由が詳しく述べられていない場合があるが、そこを三者の会話で補っている。また子規の口を借りて稔典が意見を開陳している個所も見受けられる。例えば、

     思ふ事只一筋に乙鳥(つばめ)かな   漱石


に子規は二重丸を付けたのだが、会話の中で漱石が「思ふ事只一筋に」を人のようすと読み、その人のそばを燕が一直線に飛んでいる、という解釈はどうかね。」と言ったら、子規曰く「それだと、「思ふ事只一筋や乙鳥(つばくらめ)」だね。あっ!これ、よくなったよ。」となっている。「往復書簡集」の句稿には、こうした添削はない。同様に子規が二重丸をつけた漱石の句に対して、稔典がどこがよいのか、と子規に反問している場面もある。更には子規が亡くなった後に漱石が作った俳句についても子規が批評している。こうしたやり取りを通じて俳句作法を読者に伝えようという試みなのである。特に「切れ」の使い方は、よく出て来る。漱石の俳句は玉石混交だが、それらを例にとって良し悪しを具体的に議論している形式なので分り易い。

ところで未だによく分らないことがある。漱石が子規の批評を仰ぐために送った句稿は三十五回、実に五年間も続いたのだが、子規が添削した後の句稿は、子規から漱石に送り返さなかったようだ。だから句稿が後世に残ったともいえるが、では漱石は一体どのように子規の意見や添削を知り得たのであろう?知り得なければ、子規に批評を乞う意味がないし、長期間続くはずはないと思えるのだが。


[追伸]e船団の坪内稔典主宰に質問をメールしたところ、主宰に代わって中原幸子さんから解答を頂いた。それによると、子規は漱石の句稿を添削・コメントした後、自筆で(写)をとり、漱石に送り返していた、とのこと。子規の几帳面さには全く驚いてしまう。
[追追伸]「自筆で(写)をとり、漱石に送り返していた」という事は正確には、子規は漱石の句稿を添削した後、良いと評価した句を彼のメモ帳「承露盤」に筆写して後、漱石に句稿を送り返した、ということのようだ。その際に、子規は添削・評以外の日常的な文章は書き足さなかったのである。句稿は漱石の手元に残った。