天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

漱石の俳句作法(1/8)

倒壊前の愚陀仏庵

[注]本シリーズは、2014年9月に評論としてまとめたもの(画像を除く)です。

はじめに
 夏目漱石正岡子規を介して与謝蕪村を近代に受け継いだ。このことを、子規との交遊の仕方、具体的な句稿のやりとり などの資料をもとに跡づけてみたい。
俳句は子規に入門することで始めたが、その作法は、子規が称揚した蕪村の方法に酷似していた。そして初期の小説家の漱石が目指したものは、「俳句的小説」であったが、それは蕪村の『春風馬堤曲』の小説への応用といってよいものであった。
子規に入門
子規は日清戦争従軍からの帰途、船中で血を吐いたが、その治療をするため、明治28年5月23日に県立神戸病院に入院した。26日に漱石は、子規を見舞う旨の書簡をだしたが、その中に「少子近頃俳門に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候」と伝えた。その後、子規は漱石の勧誘で下宿先の愚陀仏庵に同居するが、その間に(9月23日)句稿一が子規に渡され、子規の添削・評が始まった。漱石が子規に教えを乞うた背景には、子規が既に江戸俳諧を分類し、明治26年に新聞『日本』に「獺祭書屋俳話」を連載して俳句の革新運動を開始していることをよく知っていた事情がある。
愚陀仏庵の子規の滞在は52日間であったが、子規が東京に帰ると追いかけるように、矢継ぎ早に句稿が子規に送られて、以後明治32年10月17日の句稿35まで、実に5年間も続いた。
 漱石は写生を提唱する子規から俳句を学んだが、作った俳句には、物語・小説の情景を詠んだ作品が多い。子規はそれらを否定することなく○や◎をつけている。ここから子規の写生という考え方には、自分が体験しなくても実感があればそれでよい、また俳句の題材に制約を設けない考えであったことが分る。子規は『俳諧大要』において次のように言う。
「俳句をものにするには空想に倚ると写実に倚るとの二種あり。初学の人概
ね空に倚るを常とす。空想尽くる時は写実に倚らざるべからず。」
対して漱石は写実について子規に次のように書き送っている(明治28年11月13日)。
「小生の写実に拙なるは入門の日の浅きによるは無論なれど、天性の然らし
むる所も可有之と存候。」