鑑賞の文学―俳句編(41)―
今回は、俳句の評価に最高と最低との両極端がでることについて。掲句は中学校の国語の教科書にものったこともある有名な句なのだが、次に示すような両極端な評価がなされた。
[飯田蛇笏]大正期の代表的俳人。俳誌「雲母」を主宰。
芥川龍之介の俳気英邁を最初に認めた。掲句は最初、大正7年8月号の「ホトトギス」雑詠欄に、次の形でのった。
鉄条(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな
後に
蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな
と改められた。この句について、蛇笏は「無名の俳人によって力作さるる逸品」と称賛した。この近代俳句の魁と賞すべき名句(加藤郁也)が縁で、蛇笏と芥川との交流が生まれた。
[萩原朔太郎]大正期の日本を代表する詩人。大正6年に第一詩集『月に吠える』を刊行。
朔太郎の評価の言葉を以下に引用する。
この句は、ゼンマイに似ているといふ目付け所が山であり、
比喩の奇警にして観察の細かいところに作者の味噌がある
のだらうが、結果はそれだけの機智であつて、本質的に何の
俳味も詩情もない、単なる才気だけの作品である。彼の俳句は、
多分にもれず文人芸の上乗のものにしか過ぎなかつた。
「文人の余技」と言ふだけの価値に過ぎず、単に趣味性の好事
としか見られないのである。
なんとも呆れるばかりに評価が隔絶している。萩原朔太郎は室生犀星の俳句についても辛辣極まりない評価を下している。彼は小説家が俳句を作ることは、「文人の余技」として彼等の俳句を認めようとしなかった。ただ、芥川龍之介は松根東洋城の「渋柿」によって句作し、高浜虚子の「ホトトギス」に投句し、俳人・久米三汀を友人にもっていた。『芭蕉七部集』などで俳諧を学んでもいた。生涯に1158句を作っている。また夏目漱石にしても正岡子規について俳句を学び、蕪村にも通じていた。生涯に2544句を作っている。
戦後においても桑原武夫が、俳句を第二芸術として、一級の文学とは認めなかったように、俳句の評価はまことに難しい。
ちなみに次の三句はどれが優れた句であろうか?
腰ぬけの妻美しき炬燵かな 蕪村
死病得て爪美しき火桶かな 蛇笏
癆咳の頬美しや冬帽子 龍之介
龍之介は、蛇笏の句を高く評価して、それを参考に自分の句を作った、と言っている。蛇笏の句は蕪村句の本歌取であり、龍之介はそのことを知っていた。