天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

河童と我鬼 (5/10)

角川ソフィア文庫

蕪村句との関係は後に述べることにして、芥川と同時代の俳人や俳句仲間との交流が句作の刺激になった。飯田蛇笏との関係は、「はじめに」で述べたように「鉄条(ぜんまい)」の句を称賛されてから始まった。蛇笏は龍之介より七歳年長。直接対面の交流はなかったが、蛇笏の句を真似たり、蛇笏の故郷・甲斐に挨拶している。
     死病得て爪美しき火桶かな         蛇笏
これは蕪村の
     腰ぬけの妻美しき炬燵かな
を踏んでいることを承知の上で、
     癆咳の頬美しや冬帽子           我鬼(大正七年)
と詠んだ。常識的に知られた労咳結核)患者の外見そのままの内容で、作りもの句。
大正十二年、甲斐に住む蛇笏への手紙の文末に
     春雨の中や雪おく甲斐の山
との挨拶句を贈っている。
蛇笏が、芥川の訃報に接して、次の弔句を詠んだことはよく知られている。
     たましひのたとへば秋の螢かな       蛇笏
年齢の近かった久米正雄(三汀)、久保田万太郎室生犀星などとは、俳句のみならず本業の文筆の面でもお互いの作品を批評しあったようである。
同時代の俳句・俳人全てに関心を示すでなく、知人・仲間・有名俳人の作品にのみ興味を持った。
夏目漱石との関係は章を改めて論じることとして、以下には、芥川龍之介が自作の俳句をよく吟味・推敲した例を見ることにする。
芥川の俳句を最大限集めた加藤郁乎編『芥川龍之介俳句集』(一一五八句)を見ると、推敲した形跡や数年後に見直したことが分る。推敲途中の句を除き結果の一句だけ考慮すると、芥川の俳句の数は一0四三句になる。
後の自選『澄江堂句集』に採録した句について推敲過程の例をいくつか以下に紹介しよう。
大正八年から
     夏山や幾重(いくへ)かさなる夕明り
     夏山やいくつ重なる夕明り
     夏山や峯も空なる夕明り
     夏山や山も空なる夕明り         『澄江堂句集』に
夏山と夕明りとの関係が依然として分りにくい。
大正十二年から
     唐黍(たうきび)やほどろと枯れし日のにほひ
     唐黍やほどろと枯るる日のにほひ     『澄江堂句集』に
「枯るる」で現在進行形になった。枯れるのも匂うのも唐黍のこと。
大正十四年から
     吉利支丹坂(きりしたんざか)は急なる寒さ哉
     切支丹坂は急なる若葉かな
     切支丹坂を下り来る寒さかな        昭和元年に改作した句
「急なる」の掛かりが不自然だったのだろう。『澄江堂句集』には昭和元年作を「切支丹(きりしたん)坂を下り来る寒さ哉(かな)」として入れた。
昭和元年から。いずれも「寄内」の詞書あり。
     臀(しり)立てて這ふ子おもふや笹ちまき
     ひと向きに這ふ子おもふや笹ちまき
     ひたすらに這ふ子おもふや笹ちまき     昭和二年に改作した句
「笹ちまき」に向ってひたすらに這う子の姿にしたかった。『澄江堂句集』には昭和二年作を「ひたすらに這(ば)ふ子おもふや笹ちまき」として入れた。