わが歌枕―平泉
西行は陸奥(みちのく)を生涯に二度尋ねている。30歳前後と69歳の時である。西行は陸奥の旅で、衣川、中尊寺、束稲山などを訪れて歌を詠んだ。二度目の平泉を去った翌年に、頼朝に追われた義経が平泉に逃げてきたという。頼朝軍に攻められ義経が高館で自刃し、平泉藤原氏が滅亡したのは、西行がついの棲み家の河内国弘川寺に草庵を結んだ72歳の時であった。
西行が詠んだ歌を次にあげる。衣川は北上川支流の一級河川である。
衣川汀(みぎは)によりて立浪は岸の松が根あらふなりけり
(夫木和歌集)
とりわきて心もしみてさえぞ渡る衣川見にきたる今日しも
涙をば衣川にぞ流しつるふるき都をおもひ出でつつ
奥に猶人みぬ花の散らぬあれや尋ねを入らむ山ほととぎす
聞きもせずたはしね山の桜ばな吉野の外にかかるべしとは
この歌の歌碑が山の公園内にある(表記は異なるが、右上の画像)。
近代になって中尊寺を詠んだ例を次にあげておく。
時うつり人亡び失すいみじくも金色堂をいとなみにける
佐佐木信綱
私が平泉を廻った際には、束稲山まで行けなかった。高館の義経堂から遠望するだけで終った。
義経の自刃の跡の高館に佇ちて見渡す束稲山を