天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

わが歌枕―河内国弘川寺

弘川寺にて

 西行は文治五年(1189年)嵯峨から河内の弘川寺に移り、翌年二月十六日に没した。享年73歳。弘川寺での短い期間に詠んだ歌がどんなものかよく分らないが、弘川寺に移る以前に、予め死を想定して詠んだ次の歌は、あまりにも有名。境内に歌碑がある。

  ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ

 西行墓のある裏山には、桜の木が多数(1500本という)植えられている。私が訪れた2012年の初夏には、すでに葉桜だったので、見事な花の景色には残念ながら出会えなかった。
なお西行の死後に『新古今集』に選ばれた次の歌は、最晩年のものに思われる。

  おろかなる心の引くにまかせてもさてさはいかにつひの思ひは

弘川寺は、役行者の開基でその自作といわれる薬師如来像を本尊として、天武朝期に勅願寺となり行基空海もここで修行したと伝えられる。西行はこのことを知っていて、弘川寺をついの住処と決めたのであろう。それにしても不便な場所にあり、京都の嵯峨から移ってくるのは大変であったはず。西行の強靭な体力につくづく感心する。
江戸時代に入り寛延年間に歌僧・似雲が西行の墓をこの寺に尋ね当て、庵を結び西行堂を建立。自らもここに没したという。


  義経と奥州藤原亡びしを花の下にて聞きにけらしも
  西行の庵は高野、吉野、伊勢、京に讃岐に河内にありき
  歌の道仏の道とことならず諸国めぐりてひと世過ごしぬ
  あまたなる庵かまへて旅をせしその西行の費用いぶかる
  西行の庵の跡を訪ねては主なき家の年月思ふ
  西行の生活費のことあやしめどつひに知り得ずわが旅終る


[あとがき]西行の生活費
 西行(佐藤義清)の実家・佐藤氏の領地は、田仲の庄(現在の和歌山県那賀郡打田町で粉河寺と根来寺の中間)にあった。肥沃な土地で莫大な収入があったであろう。
 西行高野山や吉野に庵を持って何度も籠ったが、これらの場所は、田仲の庄にわりと近い。中でも高野山は近いので、ここにいて実家から財政援助を得ることは容易であった。だが京(嵯峨、東山)、伊勢、讃岐、平泉などにも庵があり小夜の中山、白川の関などを長期間旅して歩いたが、途中で生活費を補充する必要があったはず。田仲の庄の実家から金銭を取り寄せる手段として、ひとつには平安末期から鎌倉時代にかけて普及した飛脚があった。別の方法として、西行には個人的な従者がいて、実家と旅先の西行との連絡をとっていたことが考えられる。あるいは佐藤氏と懇意の豪族(例:平泉の藤原氏)が、それぞれの土地にいて、彼等に援助してもらうこともあったか。
 西行の生活費について考察した書物が見当らないので、以上のような拙い考えしか思いつかない。