墓を詠む(1/8)
お盆の時期になったことでもあり、お墓や墓地がどう詠まれてきたかを見てみたい。
墓(はか)の語源は、「はうる(葬)」と「か(処)」にある。古く上代では、奥津城(おくつき)と言い、奥都城とも書いた。「奥深い所にあって外部から遮られた境域」、「柩を置く場所」の意味になる。本来は、死体遺棄による葬法を表しているという。土を高く盛り上げてつくった有力者の墓は古墳という。このシリーズでは、関連するものとして墓石、墓穴、墓碑、墓所、墓地、墓標、霊園 などを詠んだ短歌もとりあげる。どの作品も哀切である。
葦屋(あしのや)のうなひ処女(をとめ)の奥津(おくつ)城(き)を
行き来と見れば音(ね)のみし泣かゆ 万葉集・高橋虫麿歌集
われも見つ人にも告げむ葛飾(かづしか)の真間(まま)の手児名
(てごな)が奥津城処(おくつきどころ) 万葉集・山部赤人
昔こそ外(よそ)にも見しが吾妹子が奥つ城(き)と思(も)へば
愛(は)しき佐保山 万葉集・大伴家持
手むけにと植ゑし小はぎの花さきてあさ風さむし母のおくつき
金子薫園
夏草の中に蕨もしげりつつ小さき丘の君がおくつき
松村英一
唯一なるねがひにみ骨わかち埋む信濃の村の親のおくつき
窪田章一郎
シベリヤのチエレンホーボに行かむ日のありやあらずや弟の墓
窪田章一郎
墓石に水をそそげば濡れに濡るいざ帰りなむ妻よわが家に
窪田章一郎
二首目の手児名(手児奈)は、「真間の井」に水汲みに集まる娘たちの内の一人であったが、とびきりの美人で、多くの男たちを惹きつけ、他の娘たちの妬みを買い、争いまでおきた。それを悲しんで手児名は、真間の入り江に身を投げたと伝えられる。市川市には「手児奈」を祀る手児奈霊堂がある(右上の画像)。