天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

スミレと薺(なづな)(4/10)

西湖(webから)

三 注意
干渉部にもそれなりの活気を持ち込もうとする傾向が進むと、二つのまとまりのどちらが基底部で、どちらが干渉部なのか、つまりどちらが主でどちらが従なのか、ほとんど判断のつかない構成をもつ句が現われる。句中の切れの上下が同等の重みを持つ場合に多い。例えば、
       春泥の乾きて鶏のくぐみ声
は、次の二通りがあり得る。
       <春泥の乾きて>鶏のくぐみ声
       春泥の乾きて<鶏のくぐみ声>
同様の構造の句をいくつかあげよう。
       禁煙の男と籠のきりぎりす
       西湖まづ覚め万緑を目覚めしむ
       冬瓜を提げて五條の橋の上
       三月の噴水服の色いろいろ
またそれとは別に、句全体が基底部をなしているものもある。句中の切れがはっきりしないまたは無い、一句一章の場合である。
       <まとひつく潮(うしほ)を初日はなれけり>
       <凍瀧の頤(おとがひ)がつとはづしけり>
       <床屋から出て来た貌の穴子かな>
       <じやが芋は真面目な花を咲かせます>
       <玄関にほほづき市がやつて来た>