天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

自然への挽歌(1/9)

三枝昂之『うたの水脈』

科学技術文明の発展に伴う合理的思考の普及につれて土俗文化が後退し、アニミズムは衰退した。季節感の希薄化も起きてきた。資源開発や都市文化によって引き起こされる大規模自然破壊や環境汚染は、世界的問題に発展している。前登志夫が短歌に詠んだ吉野の山住みの生活は、大方の人には体験できなくなった桃源郷である。現代人にとって従来の自然詠は、自然破壊によって失われたものへの郷愁であり、これから詠まれる歌は、自然への挽歌になるだろう。
自然詠の定義  
三枝昂之「詩的風景論」(『うたの水脈』)に添って、本稿で取り上げる自然詠の定義をしておこう。三枝は和歌表現の本質を次のように規定する。
「〈景〉に触発される〈心〉の表現も、〈心〉に導きだされる〈景〉の美しさも、今日においては、『短歌表現を他から区別し特定する大切な表現法上の特徴』である。」
これを図式的に、和歌の本質とは、「心」(主体・主観)+「景」(客体・客観)ということと解釈する。ただし、寄物陳志のようなレトリックがあるので、「心」と「景」とをきれいに分離できるものではなく、混ざり合っている状況も考慮しなければならない。その上で、自然詠とは、「景」に重点をおいた歌と定義する。正述心緒の相聞歌は、逆に大部分を「心」が占める。次に自然に関しては、海や山河、花鳥風月のこととし、花は植物一般、鳥は動物一般、風は気候・季節、月は星宿の運行・宇宙一般 を象徴するものとしておく。人間は動物なので自然の一部に入れるが、客観的に詠う場合に限ることにしたい。
以上のような観点に立つと、自然詠は相当限定される。もともと漢詩の例でも分かるように詩は、作者の思い・志を詠うものであった。短歌も同様である。では、自然詠とは五七五七七にのせた自然に関する記録なのか? 重要な点は、「景」の切り出し方に作者の独自性が発揮されることである。措辞や韻律の工夫によって詩の生命が吹き込まれる。具体的に見ていこう。
自然の態様のどこに着目するかに作者の心情、思想が反映される。暗喩に使うこともできれば、自然と一体化してアニミズムに向かうことも可能である。
自然詠のどこが人の心を惹きつけるのであろう。詠われている情景やその韻律が要因であることは確かである。読者の体験・知識・想像力に訴えて感動を誘発しているのだ。俳句や短歌のような短詩形では、この点に大きな特徴があることになる。自然詠の特質は、絵画性と音楽性にあると言っても過言ではない。
人間の感情を直には表現しない、いわば純粋な自然詠の原初を、念のために漢詩記紀歌謡に見ておこう。
    江南の春   杜牧
 千里鶯啼いて緑紅に映ず
 水村山郭酒旗の風
 南朝四百八十寺
 多少の楼台煙雨の中
杜牧は晩唐の詩人(八0三年〜八五に年)。
自然詠には、作者の思いが暗喩で入っていることがある。
 狭井河よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす。
 畝傍山 昼は雲とゐ、夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる。
この古事記歌謡の例はよく知られているように、身の危険を伝えるメッセージであった。歌謡にある前書・詞書によって初めてそうと知ることができる。
自然詠に関しては、次の菱川善夫の重要な意見をあげて、本論考の機軸にしたい。(「月光殺人譚」「短歌往来」平成三年一0月号・在来の自然詠への疑問 から)「その(自然の)危機には目をつぶり、残された自然の中で、自分一個の「さとり」に没頭するのは人間の傲慢に手を貸すことにつながる。」「自然に身をまかし、自分を無化し、自己の救済を最終的な課題とする旧来の自然観とは対立する立場にたちたい。」「自然詠においても、個をどのように超えていくのか、という問題がさし迫った課題として、われわれの前に突きつけられている。」