文(房)具を詠むー墨・インク・クレヨン(1/2)
墨は、菜種油やゴマ油の油煙や松煙から採取した煤を香料と膠で練り固めた物、またこれを硯で水とともに磨りおろしてつくった黒色の液体(墨汁)のこと。
する墨をあらふ涙はさもあらばあれさてかくあとも思ひならずや
たのしみはわらは墨するかたはらに筆の運びを思ひをる時
橘 曙覧
*童子に墨を磨らせて、自分はどう筆を運ぶか思いをはせている状態を楽しんでいるのだ。
墨をする間(あひだ)ひたすらやすらかにこころしづめむ濃くならむまで
岡 麓
*結句は、墨が濃くなるまで、ということ。
線太く墨もて描きし麻布は或るは東(あづま)の民や織りけむ
窪田章一郎
磨(す)る墨の昏らきを恃む一世(ひとよ)にて余のおほよそは眩しく過ぎむ
一枚のみのり写すと磨る墨のこごる寒さよ手におぼえなし
土田耕平
*「みのり」とは、御法で仏法、仏の教えのことであろう。
文(房)具を詠むー筆・鉛筆・ペン(3/3)
万年筆の原理は、ペン軸の内部に保持したインクが毛細管現象により、溝の入った芯を通してペン先に持続的に供給される構造にある。
日本における鉛筆は、徳川家康が最初に使用したという。しかし定着はせず、輸入が始まるのは、明治時代になってからだった。日本での鉛筆の量産は、1887年に新宿で、真崎鉛筆製造所(現在の三菱鉛筆)創業者・真崎仁六によって始まった。
ボールペンは、ペン先に小さな鋼球を内蔵し運筆とともに回転して軸内のインクを滲み出させる構造を持つ。
フェルトペンは、ペン先にフェルト(動物の毛を圧縮してシート状にした繊維品)や合成樹脂を使用し、毛細管現象によってペン軸からインクを吸い出し描画する構造。
万年筆・時計とつねに身辺の用を足せしものも用なくなりぬ
木俣 修
つねのごと萬年筆が吸ひこみしインクの重み指先に知る
窪田章一郎
万年筆買わむと寄りし新宿は春雨打ちて人を走らす
三枝昂之
冬の夜の夜のしづまりにぺんの音耳に入り来つ我がぺんの音
ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く
書き出しの藍の掠(かす)るるボールペンなぞり直してわが署名せむ
篠 弘
ボールペンのキャップつけねば手応えのわずかに足らぬ文字書きながら
吉田恵子
手さぐりにフェルトペンありなお吾に表現という残るよろこび
近藤芳美
文(房)具を詠むー筆・鉛筆・ペン(2/3)
立ちぎはの端書(はがき)一枚えんぴつの文字もかすれぬ何処(いづく)へむかふ
松村英一
*端書: 紙片にしるす覚え書き。
死にし子が中ば削りし鉛筆の脆きくれなゐの芯もかなしも
木村捨録
鉛筆の芯をとぎつつ幼きは幼きながら眼を刺す知恵を
坪野哲久
*なんとも危ない情景を詠んだものだ。
鉛筆をなめなめ次の逢う場所に丸つけて地図にわが愛を置く
浜田康敬
鉛筆を取り落としたる 机(き)のしたへ這ふところまで 月が来てゐる
鈴木 實
*机の下に落ちた鉛筆をとろうと腹這ったときに月を見たのだろう。
やはらかき鉛筆の芯削りをりかかる反復のやすらかにして
山口 純
落ちたるを拾はむとして鉛筆は人間のやうな感じがしたり
花山多佳子
ひっそりとエンピツ削る散髪をしたての少年の襟足のように
前田えみ子
遺されし図嚢のなかの色鉛筆 百日紅の花の色あり
森岡貞香
*図嚢: 地図などを入れて腰に下げる、小さい箱形の革かばん。
文(房)具を詠むー筆・鉛筆・ペン(1/3)
「文房具」の「文房」とは、書斎のことで、そこに備えておく道具が、文房具になる。大まかに筆、墨、硯、紙の4点を指すのが一般的。なお文具というとそれ以外の品を含める。
頼もしな君君にます折にあひて心の色を筆にそめつる
*下句は感動した思いを文章にして書いた、ということ。
筆採りて五日経にけむ明がたにほのぼの石の形見せけむ
橘 曙覧
*上句も下句も推量のかたちをとっているが、執筆に夢中になって時日の経つのに無関心であった、ということか。
そば湯にし身内あたためて書き物を今一息(ひといき)と筆はげますも
わがために筆あらふべく人のために髪あらふべく賀茂の川流る
かたみともならばなれかし警報のさなかも措(お)かぬ筆のみいのち
四賀光子
田畑のうた(8/8)
ダムの面吹きくる風のつめたかり人参背負ひ山畑下る
下平武治
種子ならず土壌重んずる焼畑は山の神なる女の文化
伊藤一彦
*種子を男に、土壌を女に見立てた発想だろう。
はるかにも花畑つづくに此処よりは踵かへせといふ札の立つ
池田まり子
未熟なる実が毒かくすとふ芥子畑その怪(け)し畑に花散りそめし
富小路禎子
*芥子の白花の未熟の実からは阿片 (あへん) の原料がとれる。
畑土の下に活断層のありやなしやめぐり来し春にわれは種蒔く
田西妙子
*活断層: 断層のうち近年の地質時代(数十万年間)に繰り返しずれた形跡があり、今後もずれる可能性があるもの。
しなやかに風わたりゆく麦の畑去年もここに黄に熟れてゐき
下田徳恵
駅舎とはひかり集まるひとところ茄子畑の道駅へと向かう
川本千栄
きさらぎの時のいとまをゆく畔に密語のごとしひとつ小花は
後藤直二
*密語: ひそひそ話。あるいは仏の、奥深い真実が隠されて説かれた語。
田畑のうた(7/8)
桃の木はさびしき冬木となりをはり畠に灰を捨てて人去る
小暮正次
菊畑に鋏の音のいつまでも鳴り夕靄は谷田(やつだ)を埋めぬ
大野誠夫
篁が夕日をはじき麦畑が青くいろどる冬枯るる野を
結城哀草果
*篁(たかむら): 竹が盛んに生えているところ。たけやぶ。
四つんばいに天をみるかな天ちかき村と呼ばれてつづく焼畑
*焼畑: 山林・原野を伐採してから火をつけて焼き、その灰を肥料として作物を栽培する農法。また、その畑。(辞書による)
ふる雨に明るくつづく桑畑ここの台地は古代にか似ん
佐藤佐太郎
耕して天にいたらむ段畑もしづけかりけりみ冬の島山
葛原 繁
吹き晴れて菜畑低くひかる道きのうの雨の水たまり越ゆ
桜井登世子
雪炎(ゆきほむら)過ぎて菜畑の黄の炎 風はさびしきあそびをなしつ
斎藤 史
田畑のうた(6/8)
いつの日か田の埋まらむ一人植うる濁りに白きビルのゆらげり
かはるなく屈みて終る吾が未か草取る姑の田に低き影
*自分の未来を田の草を取る姑の姿に見ている。農家の嫁姑の人生を詠んで、重苦しい。
眼窩数多(あまた)もてるおどろの実を結び月夜風の夜蓮田(はちすだ)冷ゆる
富小路禎子
*上句は蜂の巣状に見える蓮の花托の様子。
西陽避けてトラックの陰に憩ひ居る田植ゑ終へたる中年夫婦
羽田忠武
諦めて田に掛け残す長稲架(ながはさ)の稔りなき穂に降る雪は積む
菊池映一
水張り田に映る五月の空の色截りて早苗の点描つづく
伊吹 純
あずさゆみ春のひろ野に草萌えて休耕田の畦道をゆく
中川左和子
*あずさゆみ: 春(張る)の枕詞。