天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

現代の定家(1)

 今日は名古屋から伊丹に出張する。
       朝光(あさかげ)の積雪まぶし比良の山


 塚本邦雄著『定家百首』を読み続ける。現代の定家と自認する塚本の背景には、彼の次のような言葉がある。

“ 佐佐木信綱校訂、岩波文庫版『新古今和歌集』は、その後三十数年間に積み重ねたいかなる詩歌本にも比べがたい愛読書となった。そして通覧した一巻の中で私の心を灼いたのはつひに定家一人に盡きた。・・・・また一方私の歌人としての生を決定する抜きがたい信條ともなった。 ”

“ 今日、改めて私の心を去来するのは、「近代秀歌」中の一言、すなはち、「むかし貫之、哥の心たくみに、たけおよびがたく、ことばつよくすがたおもしろき様をこのみて、餘情妖艶の躰をよまず」である。定家の百首撰は、思えば一首一首の背後に、この一行の訴への殷々と谺する作をのみ、よりすぐったと言ってもよい。餘情妖艶の躰であるか否か、これこそ定家の、延いては私自身の選歌の基準に他ならぬ。  ”