天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

鑑賞の文学 ―短歌編(32)―

講談社文芸文庫

 塚本邦雄に新古今天才論として『花月五百年』という本があり、それを読み終わった。過去に諸雑誌に発表した評論を集めたものだが、新古今集を編纂した歌人達と同時代に生きた新古今集入選の天才歌人たちを論じている。その中に「百人一首中の新古今歌人」という一文がある。もとは「国文学」増刊号(昭和54年12月)に載ったもの。
藤原定家の選になる通称「小倉百人一首」の原型は、鎌倉幕府御家人・宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾用に色紙の作成を依頼したという。
 塚本邦雄の論点は、新古今集に載ったほどの当代の歌人達(10人)が、この百人一首では、不当に扱われているということにある。選りによって、なんでこんな冴えない歌を代表歌として定家は選んだのか?底意地の悪さが感じられる、と糾弾するのである。但し、百人の中に入れるほどの歌人ではない、として入道前太政大臣西園寺公経)に言及している。また、二條院讃岐の歌については、代表歌として承認している。
百人一首にとられた歌(91番から100番の10首)に対して、塚本が推奨する歌を後に書いて、以下に列挙する。


後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
  きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む
  寂しさや思ひよわると月見ればこころの底ぞ秋深くなる
二條院讃岐  代表歌として良いが、原作なら更に良い。
  わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし
  わが恋は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし(原作)
鎌倉右大臣(源 実朝)
  世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも
  儚くてこよひ明けなば行く年の思ひ出もなき春にや逢はなむ
参議雅経(飛鳥井雅経
  み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり
  儚しやさても幾夜か行く水にかずかきわぶる鴛のひとり寝
大僧正慈円
  おほけなくうき世の民におほふかなわがたつ杣に墨染めの袖
  鳴く鹿の聲にめざめてしのぶかな見はてぬ夢の秋のおもひを
入道前太政大臣西園寺公経)百人の中に入れるほどの歌人にあらず
  はなさそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
  ほととぎすしのぶる聲の菅原や伏見の暮の夢かうつつか
中納言定家(藤原定家
  来ぬ人を松帆の浦の夕なぎにやくや藻塩の身もこがれつつ
  おきわびぬ長き夜あかぬ黒髪のそでにこぼるる露みだれつつ
従二位家隆(藤原家隆
  風そよぐならの小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける
  明けばまた越ゆべき山の峯なれや空ゆく月の末の白雲
後鳥羽院
  人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は
  白菊に人の心ぞ知られけるうつろひにけり霜もおきあへず
順徳院
  ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
  侘び果つるうつつの憂さや馴れにけむ思ひ寝ならぬ夢をだに見ず


 塚本邦雄は、この評論で自身の選歌力・鑑賞力を世に問うたのである。塚本は新古今集を、わけても定家を高く評価した。が、それは無批判に受容したわけでなく、この評論に見るように定家と並び立つ位置から批判した上での評価であった。