天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

リアリティ

 芸術の分野で、つまり人間が創作する作品について、リアリティがあるとかないとか議論されたり批評に現れることが多い。広辞苑には、「現実。実在。実在性。迫真性。」という説明がある。芸術作品については、現実、実在という言葉は当てはまらない。何故なら、芸術作品は創作であり、現実でも実在するものでもないからである。というわけで、芸術作品のリアリティとは、実在性、迫真性という訳が当てはまる。では、短歌のリアリティとは。例えば、次のような歌にリアリティがあるのかないのか。
A ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも
                      上田三四二
B 瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
                      正岡子規
C いずれ産む私のからだ今のうちいろんなかたちの針刺しておく
                      岡崎裕美子
D 満身に怒りの花を噴き咲かせガザ回廊に死んでいる我
                      岡井 隆

A,Bにはリアリティがない、C、Dにはリアリティがある、という。「短歌研究」四月号に出ている例で、AとCは栗木京子、BとDは井辻朱美が引いてリアリティの有無を論じている結論である。
結局のところ、リアリティとは個々の読者の経験・感性・鑑賞力に依存する多分に主観的な性質といえるのではないか。そしてリアリティがあると主張するには、他者を説得させる鑑賞を提示するしかないことになる。事実を詠んでリアリティが出てくるのは当たり前、事実でないものを詠んでリアリティがでてこその芸術ということであろう。
 では、次の名歌はどうか。言わずと知れた藤原定家の作。


  春の夜の夢のうきはしとだえして嶺に別るるよこぐものそら
  かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふす程はおも影ぞ立つ