天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

リアリティ(続)

 昨日取り上げた「短歌研究」四月号の特集について疑問を呈しておく。「事実であるがリアリティがない」という言葉に矛盾を感じる、違和感があるのである。事実を詠んでいるならリアリティそのものではないか。昨日の例では、子規の「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」がそうである。この歌はアララギ系の有名歌人が讃えるほどの名歌ではなく、塚本邦雄が評したようにつまらない歌である。リアリティそのものといえるのにである。事実を忠実に詠んだつもりでも実際は、ほんの一部分しか描けていないので、厳密にいうと事実を完全に詠んでいることにはならない。上田三四二の名歌「ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも」を栗木京子は、事実を詠んだ歌でリアリティがない、と断じているが、そうではあるまい。名歌と評価される所以は、読者に懐かしい豊穣なイメージを抱かせる力を持つからである。事実を詠んだかどうかの次元を超えた歌なのである。
 「北国の少女のほっぺは赤い」という言い方は、事実を述べているであろうか?
「北国の少女はりんごのようなほっぺを持つ」という言い方ならどうか? 事実を詠んだつもりの写実の危険は、読者のイメージを限定してしまう点にある。代わりに比喩を使うと、読者のイメージが自由になり鑑賞の幅がぐんと広がるのだ。