谷の歌
渓 とも表記するが、和歌に詠まれた例では、渓谷(たにま)、深谷(みたに)、くら谷、谷の戸、谷間 などとしても出て来る。四国、関西、関東、みちのく などの山野を歩いた西行法師は、谷をかなり多く詠んでいる。『山家集』には二十六首ある。現代歌人では、西行が庵を構えた吉野山に住み、先ごろ亡くなった前登志夫も『霊異記』で、谷をよく詠んでいる(十五首以上か)。
鶯の鳴くくら谷に打ちはめて焼けは死ぬとも君をし待たむ
万葉集・平群女郎
今日今日とわが待つ君は石川の谷に交りてありといはずやも
万葉集・依羅娘子
草深き霞の谷に影隠し照る日の暮れし今日にやはあらぬ
古今集・文屋康秀
花咲かぬ谷の底にも住まなくに深くも物を思はるるかな
和泉式部
春のほどは我が住む庵の友になりて古巣な出でそ谷の鶯
西行
桃の花しげき深谷に尋ね入りて思はぬ里に年ぞ経にける
夫木抄・藤原仲実
石越ゆる水のまろみを眺めつつこころかなしも秋の渓間に
若山牧水
ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも
上田三四二
霧涌ける山の夜よる子の花火夏の終りの谷にむかひて
前登志夫
湯気噴ける大涌谷の神山を暗めて朝の太陽は出づ