歌語の誕生
角川「短歌」の連載「万葉集の〈われ〉」を毎月楽しみにして読んでいる。執筆者は、佐佐木幸綱。信綱、弘綱、幸綱と三代に渡って万葉集の研究家であるから、内容が大変奥深い。四月号では、歌語の誕生という話題。
“ 歌は日常語ではない。歌バージョンのことばを使う。
これが基本であった。現代短歌は日常語にどんどん
接近しているが、かつては日常語から遠ざかることが
作歌の要諦であった。 ”
“ 神は、当然のこと人間の日常語とは別バージョンの
言葉を発せられる。 ”
“ 枕詞のほか、短歌的レトリックとされる序詞、掛詞、
縁語等も、もともとは人間の日常語とは隔絶した神の
言葉が淵源にあると見ていいようである。
なぜ、歌のことばは日常語から遠ざかろうとしたか、
基本的なモチーフは以上のように神のことばの模倣と
考えていい。 ”
など含蓄があり、短歌のあり方につき考えさせられる。
また、万葉の頃は、人気のあるフレーズは、誰彼がよく用いた。
たとえば、「朝影に我が身はなりぬ」とか「妹は心に乗りにけるかも」とかがある。
朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに
夕月夜暁闇の朝影に我が身はなりぬ汝を思ひかねに
春さればしだり柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも
宇治川の瀬々のしき波しくしくに妹は心に乗りにけるかも
“ 歌を詠む。日常語とは別バージョンのことばを使う。
そこには、現実の〈われ〉、日常の〈われ〉から自由な
〈われ〉が立ち現れる。 ”
実に新鮮な論を展開している。