富士を詠む
先月のことになり恐縮だが、春分の日と翌日を岡崎に遊んで土曜日、快晴の昼を小田原に向けて帰ってきた時、新幹線の車窓に現れた雪解けの富士の姿に愕然とした。見る角度によるのだろうが、老いて形も崩れている。近くの人が、「富士山も老いたなあ」とつぶやいた。
日本を代表するこの名山は、今でも活火山なのだが、最後の噴火は、1707年(江戸期、宝永4年)の噴火にまで遡る。このとき、両肩の対称性を崩す宝永山ができた。万葉の時代から富士を詠んだ名歌は多い。
田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける
万葉集・山部赤人
風になびくふじの煙の空に消えて行くへもしらぬ我が思ひかな
新古今集・西行
高山の富士おもむろに空中に影のばしゆく怪をみてをり
葛原妙子
天の原富士が嶺曇れりわれの読む小説にいま春雨ぞ降る
佐佐木幸綱
白雪の流るる皺の深ければ富士老いたりと人はなげきぬ
この詠草を今月の短歌人・東京歌会に出したところ、次のような様々な批評が出た。
最近の富士山は、噴火するかも知れないといったニュースがあるので、老いたりという感じは持たない。皺が深いというが、わが家から見える富士には皺は目立たない。結句を第三者の言い分にしているのが気に食わない。富士の山肌深くには、凍土があってそれが解けて崩れつつあるというドキュメントをテレビで見たことがあるので、納得できる。