天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

〈読み〉が問われる

 『岡井隆全歌集』第三巻をインターネットで購入した。第四巻も出たのだが、在庫がないとかで購入できていない。新本なので定価は大変高価である。すでに第一、二巻を買っているが、「資料集成」を読んだだけで、歌集には目を通していない。つまり積んどくのまま。『塚本邦雄全集』もしかり。大体において全集ものは、こうした運命になる。もったいないことである。
 ともかく『岡井隆全歌集』第三巻の「資料集成」を抜き読みした。岡井隆の歌には、意味を追いかけることが困難な作品が多い。では鑑賞はどうなるのか? 永田和宏岡井隆の歌の読みが問われる、という小文を寄せている。例えば、次のような作品は、「一首の意味、個々のフレーズの意味を特定しようとする作業からは実りある鑑賞が期待できないであろう。全体としての曖昧さをそのまま受け容れて楽しむという形での対応がふさわしいのではないだろうか。」と書いている。
 A 生きがたき此の生(よ)のはてに桃植(う)ゑて死も
   明(あ)かうせむそのはなざかり
 B 歳月はさぶしき乳(ちち)を頒(わか)てども復(ま)た春は
   来ぬ花をかかげて
 C 春あさき日の斑(ふ)のみだれわが佇(た)つはユーラシア
   まで昔(むかし)海庭
 D 雨傘をはらりひろげて逢はむとす天はほのかに杉にほひたる


 では一首の意味がとれない時、どんな鑑賞文が書けるであろうか。思いつくまま書いてみると、

 A この世は生きがたい。せめて死ぬときは桃の花盛りの下で
   死ねるように、桃を植えておこう。西行が桜の下に死にたい
   といったあの名歌に対応する心情であろう。

 B 上句が難しい。永い間に兄弟は離れ離れになってしまったが、
   また春が巡り来て自然は花で満ち溢れた。

 C こちらは下句が難しい。立春のころか、地面に差す日の光は
   弱く、散乱している。ここは昔は海の底であり、ユーラシア
   まで続いている。

 D 文面どおりにとれば、雨が降っている公園での逢引か辺りの
   杉木立がにおう。でもこれではつまらない。


 歌の鑑賞は、その歌がもっとも引き立つようになされるべきなので、以上のような読みでは、まだまだ岡井隆の歌を読んだことにはならないのだ。嗚呼!