天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

俳句と短歌の交響(12/12)

歌集『X―述懐スル私』

歌集『X―述懐スル私』(2010年刊)「夏越なごめど」一連から。
学者の言葉や俳諧を詞書としている。以下では、俳諧の場合を取りあげる。大変難しいシンフォニーである。なお、岡井の短歌は初期の頃から、その時代の問題・トピックスをふまえていることが多い点に注意を要する。
  市中(いちなか)は物のにほひや夏の月  (凡兆)
  はいつて来る奴の死角につねに立つ訓練がつづく
  午後いつぱいを               岡井 隆
凡兆の発句は、分かり易い。夏の夕方、市中のそこここで夕食の支度やそのための食材を売る匂いがしていて、空には月が浮んでいる。片や短歌の方は、多分部屋か町の一角に入ってくる敵の目にはつかない場所(死角)に、常に立つような訓練を午後一杯している、と詠んでいる。これら二つが合わさるとどういう情景を想像するか?戦後なおテロ活動が絶えないアフガニスタンイラクの都市を思う。夏の月が出ている空の下、バザールでは食べ物の匂いが漂ってくる。だが、いつ敵の標的にされるか分からない。警備の立場にせよ、逆にテロリストの立場にせよ、敵の位置を想定して敵から見えない死角に立つことが戦闘に勝つために必須なのだ。
  月ぞしるべ此方(こなた)へいらせ旅の宿 (芭蕉
  安全で落ち着いてゐる朝だけだ まつ直ぐな線が部屋に来てゐる
                        岡井 隆
芭蕉の句は、月の光を道案内に、こちらの宿へ泊って下さいという呼び込みの形。謡曲鞍馬天狗」にある一節「夕を残す花のあたり、鐘は聞えて夜ぞ遅き、奥は鞍馬の山道の花ぞしるべなる、こなたへ入らせ給へや」を、秋の景に転換したもの。短歌の方は、朝の陽射しが部屋に差し込んでいる情景。夜はどんな襲撃を受けるか分らない。朝になってやっと安全で落ち着いていられるという。「鞍馬天狗」は、牛若丸の武術修業の話。短歌ではそれを遠く踏まえて、現代の戦地の生活を想わせている。
  あつしあつしと門(かど)かどの声    (芭蕉
  植ゑられるものを臓器と呼びたくはない磯波(いそなみ)の
  洗ふ血の藻の                岡井 隆
岡井の歌は、臓器移植をテーマにしている。磯波に洗われる血の色の海藻が臓器をメージする。上句は、外から移植するものは臓器と呼びたくない、という岡井の思いであろう。世界中で流行している臓器移植の状況に対する反感である。ここで芭蕉の句「あつしあつし」に繋がる。暑い暑いと言いながら町家の門口で夕涼みしている情景を、過熱気味の臓器移植に対する思いに転換したのである。
あとがき
近年、短歌の詞書に他人の俳句や詩を配したり、あるいは散文などを混合したりして、総合的な詩歌にする流れが出ている。その先鞭をつけた岡井隆について言えば、詞書を多用し始めたのは、歌集『マニエリスムの旅』(1980年刊)からである。そして究極の姿が、高見順賞状を受賞した岡井隆の詩集『注釈する者』である。俳句あり、短歌あり、鑑賞文や評論文のような散文形式ありの形態をとる。従って交響曲を鑑賞する観点が必要になる。本稿では、特に俳句と短歌の響き合いについて論じてみた。