天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

俳句を詞書とする短歌(3/9)

 以下では、意図的に組み合わされたと思われる俳句と短歌の一連を持つ歌集からいくつか例をとりあげて鑑賞を試みる。どのような交響があるのか、ギャップが大きく難解な場合も多い。
歌集『神の仕事場』(1994年刊)「死者たちのために」一連から。
  来し方や東西南北ただ遠樹   苑子
  父母(ちちはは)の墓にまうでて父のみに申す 頽れゆく大魚の日々を
中村苑子の句は、来し方のどこを振り返っても、ただ遠くの木を見るような思いだ、という感慨。短歌の方は、来し方のうち「頽れゆく大魚の日々」につき、墓参で父に報告している。「頽れゆく大魚」とは、衰退してゆく結社アララギ(1998年に解散)のことと解釈できる。岡井隆の父母は、アララギ歌人であり、隆もアララギから出発した。
  密着の枇杷の皮むく二人の夜  狩行
  卓上にめがねを置きぬなに故に置きしや盲(めし)ひつつ抱かむため
俳句も短歌も、男女の仲睦まじくエロチックな夜の時間を詠んでいる。俳句の情景の後に、短歌の情景が続くように歌を作ってある。
歌集『大洪水の前の晴天』(1998年刊)「与謝ノ蕪村賛江」一連から。
  〈人の世に尻を据(す)ゑたるふくべ哉〉  蕪村
  東より風ふく朝は窓明けて酔生スレド夢死ヲネガハズ
句の方は、瓢箪の安定した形状が俗世に開き直って生きているように見えるということで、瓢箪の擬人化。顔回の故事・箪食瓢飲を踏まえているらしい。短歌の方は、そんな生活の一こまを詠んでいる。下句は顔回あるいは蕪村のつぶやきとした。

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岡井隆全歌集Ⅳ(思潮社