信長による処刑
フロイス『日本史―織田信長編』に出てくる残虐な処刑の例として、荒木村重の妻子・親族に架した刑がある。信長は、高山右近を通じて荒木村重に叛乱を思いとどまるよう翻意を促したが、村重はついに聞き入れなかった。こうした場合に信長の怒りは頂点に達し、世の人々に見せしめのため、はつりつけや焼殺の刑罰を与えた。
「・・これらの婦人の幾人かには幼児があったが、母親を
いっそう苦しめるために、幼児たちを彼女らの胸に縛り
つけ、ともに十字架に懸けた。・・・・一同が続いて
十字架に磔にされた後、刑吏たちは下から、あるいは銃弾
をもって、または槍で彼女らを殺した。」
「第三の処刑はさらに比較にならぬほど残酷で非人道的、
かつ恐怖すべきものであった。四つの平屋が作られ、
それに五百十四名が分けて入れられた。それらのうち、
三百十四名が婦人で、百三十四名が男たちであった。
そこで大量の乾燥した草、柴、木材が集められ、これに
放火して彼ら全員を生きたまま焚殺した。・・・」
当時、人が死ぬ時には、僧侶に依頼してお経を書き込んだ紙の衣服を肌につける習慣があった。フロイスは、仏僧たちがこの欺瞞的な習慣を利用して豊富な施与を獲得したと書いている。
古来、中国、モンゴル、オスマン・トルコなど大陸で考案された処刑法に比べれば、まだ生易しいといえるかもしれないが、ともかく洋の東西を問わず、敵対する者には思いつく限りの残虐な刑を人類は実行してきた。