天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

わが歌集・平成二十年「武士道」

  水草を食みて泳げる池の鴨我との間をつかず離れず

  フランス式レンガ積なる要塞のトンネルの中暗き電灯

 

     武士道   八首

  自刃せし山の斜面ゆ遠望すかすみて揺らぐお城の天主 

  線香の煙にむせぶ白虎隊隊士の墓の数を気にする 

  ただひとり生き残れるを非難され会津を捨てて帰らざりけり

  東宮にまみえ涙す白虎隊ひとり生きながらへし老人 

  「ならぬことはなりませぬ」とふ武士道の碑(いしぶみ)読めばいきどほろしも

  降伏の時機失すれば無残なりしひたげられし藩士の家族

  軍監の桐野の前にしほれたり藩士見捨てし藩主容保 

  腰元の姿を今につたへたり館(やかた)跡地にならぶ乙女ら 

 

  下野の花の横なる賢治の碑雨にも負けず雨に濡れたり

  放課後を駅に集へる少女らが声をそろへて売る赤い羽根

  人の手に集めた虫を待っている植物園のうつぼかずらは

  雨雲にまたく隠れし大山の鹿は鳴くらむまた雨降ると 

  売れる店売れざる店ととなりあひ生しらす売る片瀬江ノ島

  ラブラブもめっちゃ、うざいも加へたり一気に下がる辞書の品格

  烏きて浜辺の死魚をついばめば黒き嘴(くちばし)濡(ぬ)れて光れり

  川中の鯉にも声はとどくらし鵙の鋭声に突如向き変ふ

  風化して丸くなりたる石地蔵呑龍戦士の霊をなぐさむ

  秋風にさらす方丈お宝の絵の色なべて泥のごとしも

  桐箱に入れし古文書とり出だし風にさらせり今日文化の日

  小魚のあまたおよげる北條の入江なつかし遊郭の跡

  はとバスをつらねて来たる生徒らが岩場にあそぶ城ヶ島

  寄る波が砂利をさらひてゆく音のいつまで続く冬あたたかき

  破れ蓮の池の底這ふ亀ひとつ時に水面に首だして浮く

  竹藪の竹と背丈をきそひたりゆらりと立てる皇帝ダリア

  広辞苑第六版に入れられてウルトラマンの寿命延びたり

  大いなる鮃(ひらめ)の魚拓貼(は)り出せり薄日さしたる釣船の宿

 

     横須賀   六首

  要塞の跡の石垣くづほれて空に鳶舞ふ秋の猿島

  いつも見る潜水艦を今日は見ずいづこの海に潜れるならむ

  船積を待ちて並べる自動車の白きあり黒きあり原油高騰

  浦賀沖うなさか越えて次々に小島のごときタンカーがゆく

  横須賀の米軍基地に急を告げ赤色灯の車走れり

  塔立てる小山の地下に要塞のあるやも知れず横須賀軍港

 

  ちり敷ける桜もみぢの境内に赤心といふこころ思へり

  恣(ほしいまま)に火を使ひ来し人類が再びや乗るノアの箱舟

 

     師走を歩く   七首

  大いなる嘴黒く光りたり枝に止まれる朝の翡翠(かはせみ)

  いくたびもとび込む池に翡翠は小魚一尾とれず去りけり

  博物館師走の庭の水柱三分たちて消えにけるかも

  気味悪き笑みうかべたる飛鳥仏ルーツたどれば北魏に到る

  水底に光はさせり藻を食みて身をひるがへす鯔(ぼら)のきらめき

  潜(かづ)きては浮かぶ鵜の鳥突堤の先を回りて港湾に入る

  橋桁に左右から寄る白波のうち合はさりて高くしぶけり

 

  方丈の蔀戸(しとみど)一つ開けてあり雪を眺むる奥の三尊

 

     里山   五首

  藤棚の藤に若葉の萌えそめて平成十九年終らむとする

  大いなる波紋たちたり朝日さす池の真中に雄鴨水浴ぶ

  この池にあかずひと日を暮らすらし朝すぎたれば浮寝する鴨

  首を噛み雌の背にのる雄鴨に大声あぐる人の妻はも

  古民家の竈のけむり立ち出でて小谷戸の里の木々は眠れり

 

  梅林のつぼみけぶりて風さむし柱状節理を人よぢのぼる

  幾たびも水を潜りていたる鵜の羽ばたき重く飛び立ちにけり

  真鶴の磯に並びて老夫婦弁当食ぶる涙ぐましも

  松の木の太き切口生々し魚つき保安林の間伐

 

     早春   八首

  せせらぎの飛石うつる黄鶺鴒水面にふるるその尾かなしも

  白鷺の前に浮び来上流へ水面をかけて河鵜発ちたり

  釈迦牟尼の歌碑に影おく黒松の幹をつつけるひとつ啄木鳥

  大寒のお祓ひ後を待ちうけて屋台ひしめく参道の裏

  墓古りて花を手向くる人もなし眠りすがしき和辻哲郎

  兄弟の仇討今に伝へたり富士のふもとの砲撃の音

  大いなる虚(うろ)となりたるムクノキは八百年を生き続けたり

  ひこばえの田を埋めつくす観客の感声の中走れ流鏑馬

 

  帰らざる年を思へば頬にひく罅痛々し長谷の大仏

  鐘撞くも機械じかけとなりにけり正月明くる山の端の寺

  唐蝋梅素心蝋梅咲き初めて春はま近き谷戸の寺庭

  人垣のうちに構へて弓を引く魔除神事の的打てる音 

  ぶるぶると足震はせて水底の生き餌追ひ出す朝の白鷺 

  餘香碑の下に蘇峰の遺髪あり九十五歳を憂国に死す 

  朝明(あさけ)まで降りし初雪つもらざり水玉ひかる蝋梅の花

  子ら去りしターザンロープの着地点ペットボトルの殻ひとつあり

 

     春の潮   八首

  弓なりに波の寄る見ゆ由比ケ浜塩と見まがふ雪のこりたり

  今年もや海鵜は来しと確かめに如月某日城ヶ島に行く

  道なりに咲く水仙を見つつ来し展望台は断崖の上

  島めぐり舟が入江を出でゆけり底に座れる客五、六人

  海鵜見て波打際に残したるわが足跡を消す春の潮

  岩海苔を摘む指先のあかさかな春のうしほの洗ふ渚に

  猫多き江ノ島にきて老人の猫なで声といふを知りたり

  突堤に腹ばひ眠るユリカモメ今日のひと日をいかに過ごさむ

 

     江ノ島   四首

  写さむとカメラ構へて仰向けど鳶は流るる春の疾風(はやて)に

  みぎひだり島を回りてぶつかれる春のうしほは高くしぶけり

  朝方の食事終はりて群れをるか鴨の浮き寝の大波小波

  猫多き江ノ島にきて老人の猫なで声はこれかと思ふ

 

  小田原城常盤木門を出でくれば梅もくれなゐ橋もくれなゐ

  昭和二十二年生れのインド象ウメ子は壁に尻つけ揺らぐ

 

     大磯   五首

  さみしさを少しまぎらすごとく咲く寒緋桜は墓地の片隅

  療養先百足屋旅館ありしとふ新島譲終焉の場所

  傾きて砂を積み込む船の音釣糸垂るる港にひびく

  海水を好む緑鳩も近付けず海荒れて礁(いくり)隠す白波

  潮風に吹かれふかれて痩せにけり西行法師笠懸けの松

 

  ひとときをクヌギの枝にふくらみて朝をまどろむ椋鳥の群

 

     根岸・子規庵   八首

  訪ねきてラブホの裏の子規庵と知りて驚く言問(こととひ)通り

  寛永寺墓地をのぞめるラブホテルあまたならびて命ことほぐ

  八畳の句会の間にてビデオ見る二度建て替へし子規庵のこと

  二度三度筆投げ捨てて書きしとふ絶筆三句読みてさしぐむ

  来訪の記念にと書くわが氏名子規の使ひし机に向かひ

  正座して糸瓜の棚を見上げたり子規終焉の六畳の間に

  八年をここに暮して逝きにけり二十坪なる小園めでて

  子規庵に小鳥くるらし庭におくミカン輪切のつつかれし跡

 

     高幡不動   五首

  誇らしき地元の人と慕はるる土方歳三もののふの像

  切先の欠けて古りにし木刀のまがまがしけれ汗に黒ずむ

  肉を断つ定めに白く砥がれけむ井上源三郎脇差

  徳川の世をしのびてぞ書きにけむ海舟の筆鉄舟の筆

  松脂をとりし傷跡クロマツの幹にしのべる大戦の日々

 

  白雪の流るる皺の深ければ富士老いたりと人はなげきぬ

  行儀よく昼食をとる園児らの赤き帽子の城址公園

  大山の方より嵐吹きぬらむ海に向かひて伏せる菜の花

 

     常陸にあそぶ   八首

  上野駅ホーム案内悪しければ妻をしたがへののしり走る

  間に合ひて特急「ひたち」にのりこめば行き先違ふ車両なりけり

  竹林のこの景色なり毎週のテレビドラマの幕開に見る

  光圀が米をつくりしご前田の名残りにあそぶセグロセキレイ

  茨城の平野をよぎるとき想ふ久慈川の鮎那珂川の鮎

  湯に入れば花の木立にひよどりの黒き影見ゆ二羽ゐるらしも

  麦酒一本熱燗一合呑みて酔ふ五浦の宿に熟睡したり

  海荒れて怒涛の寄するさまを見き崖なかほどの六角堂に 

 

  埴色(はにいろ)の衣を着たる僧たちがただ警棒に打たれてゐたり

 

     瀧を見に行く   五首

  遠しとも近しとも言はず教へくれし老婆の道をたどりゆきたり

  幹分かれ枝分かれして三百年若葉小暗きおほいなる楠

  名水に淹るる珈琲美味ければその香思ひて道を急ぎぬ

  山女釣る渓の川上ひとすぢの切れこみ深き瀧かかりたり

  足引きの山北の道わが着きし洒水の瀧は石も落とせり

 

  小雨降る朝の蓮(はす)池棲(す)む鯉(こい)は赤銅(しゃくどう)色の腹かへしたり

  大いなる球根ひとつ鉢植のアマリリス咲く今年五年目

  年々に居間に咲かせるアマリリス老いゆく妻のたのしみにして

  駒形のどぢやう食ひにと婚前の妻ともなひしことも思ほゆ

  石楠花の手入れする人おもむろになんじやもんじやの樹を教へたり

  欲得に生きて骨肉相食みしもののふの世をあはれむなゆめ

  さみどりの高き梢にうぐひすの影うつろひて啼きにけるかも

  身動きのならざるほどに口せまき蛇苦止(じゃくし)の井戸に身投げせしとふ

  山門を入りくる女咲き満てるつつじの花に顔の明らむ

  極楽寺白雲木の花ちらす五月の風と鳥の羽ばたき

  アヲガエル鳴く声聞こゆ木道(もくどう)に赤子這はしむ休日家族

  うぐひすの声奥ゆかし霧雨の北鎌倉にみどりしたたる

  時くれば花はちるなり極楽寺白雲木の白き小花も

  長谷寺の水深浅き池にきて亀がゆらせる沢瀉(おもだか)の花

  谷戸に飛ぶ黒き揚羽をひきよせて蜜を吸はしむ赤き石楠花

  比企ケ谷袖塚の由来聞きたればひとしほかなし著莪の花むら

  色淡き沢蟹が這ふ石段を観光客がのぼりゆくなり

  木彫の菩薩の前に佇みて触れむばかりにその技を見る

 

     梅雨晴   八首

  投げ込みし餌の近くにカヌー来て心おだやかならぬ釣人

  大いなる女の声にはげまされアウトリガーの櫂が水掻く

  六人が櫂に水かきたどりつく片瀬の浜にアウトリガーは

  繊細にして美しき金色の美容柳の雄蕊立ちたり

  くさはらに朝の木漏れ日やさしきに雀は白き蝶を追ひかく

  細竹に支へられたる山百合の倒れむばかり花七つ垂る

  入口にまむし注意の札立てばわが足すくむ山路なりけり

  ひとところ明るく見ゆる山道にまくなぎ立てりゆきがてなくに

 

     足柄郷   五首

  あぢさゐの咲くあぜ道をわがゆけば白き蝶とぶ早苗田の上

  あぜ道にとりたて野菜売り出せり水ゆたかなる紫陽花の里

  あしがらの水音たかきあぜ道にふたつ古りにし石 道祖神

  見るよりも踊るがたのし紫陽花の里のまつりの老婦人連

  あしがらの紫陽花まつりの婦人連踊りをはれば腰まがりたり

 

  日盛りの若宮大路をとびゆけり若き女の曳(ひ)く人力車

  「幻の瀧」とふ冷酒ひとり呑む肴はめざし、げそのピリ辛

 

     祈りと食   八首

  関東より少し立派な家々が沿線にたつ名古屋郊外

  大楠の根方の洞に白々と卵積みたり朝の老婆は

  脇指の光にしのぶありし日の悪七兵衛景清の痣 

  湧水の池の目高を写さむと四苦八苦せる吾と知らゆな

  スッポンは熊坂ノ庄がおすすめか熱田駅前の赤き店内

  新幹線掛川駅を過ぐるたび小夜の中山思はるるかも 

  くれなゐの袴が来たり繊(ほそ)き手がお神酒をそそぐ白きかはらけ

  空調の効かざる部屋に扇風機ぶんぶん回りうな重を待つ

 

     鮎釣りの川   五首

  次々と釣人きたり川に入るおのもおのもの長き釣竿

  激つ瀬の音に交りてきよらかに聞こえてきたりかじかの声は

  近づきて見れども見えず小魚は川の浅瀬の宙にはねたり

  いふことをきかなくなりし囮鮎岩陰に入り竿たはめたり

  白鷺のごとく佇み目をこらす川の浅瀬にくる小魚に

 

  デパートのドア開くたびに冷房の風吹ききたる夏のバス停

  破れ蓮のごとき翼をひろげたる鳶のうかべり灯台の空

 

     八月の景   八首

  飛び交ひてあつといふ間につるみたり塩辛とんぼ蓮池の空

  風もなく蓮の揺るるは池に棲む鯉か草魚か藻を食める時

  鈴鳴らしアイスキャンデー売りありく陽にかぎろへる湘南の浜

  訪ふ人を元気づけむと彫りにけむ「晴れ 笑顔」とふ墓碑銘はあり

  老人のふたりが飲めるオロナミン鉄路に沿ひて昼顔咲けり

  今年また会ひにきにけり極楽寺庭に咲きたる花さるすべり

  小さくも闇ふかければ蝉出でし穴のぞき見る吾ならなくに

  無防備に羽根ひろげたり木漏れ日のカメラの前の大黒揚羽

 

     夏木立   六首

  うす暗き本堂奥に立ちませり国の宝の秘仏本尊

  なつかしき夏うぐひすの声聞けばいよいよ青む杉の木立は

  伸び上がり岩の苔食む白き鯉清き流れの太刀洗

  「和」の一字「夢」の一字の墓多き谷戸鎌倉の禅寺の墓地

  狗尾草(ゑのころ)の尾に飛びつきて何を食む雀せはしくとび歩くなり

  頼朝が白装束に着替へしとふ日向薬師のふもとの衣装場(いしば)

 

  華麗なる羽根ひろげたるありし日の孔雀の写真小屋にかかれり

 

     秋立つ   八首

  竿先のしなり大きく巻き上ぐる釣糸待てば小魚光る

  空晴れてゆたにたゆたに流れくる広き河口のゴミの一群

  午前の部釣大会が終はりたり「やまかけ鮪丼」を食ふ

  女郎蜘蛛巣の真ん中に静もれば糸を伝ひて雄が近づく

  山門にのぼれる若き僧ありて何やら叫ぶ地上の僧に

  木漏れ陽の修験の山に何鳥か声うるはしく秋を告げたり

  礼状は「あそんでくれて、ありがとう」孔雀の棲みし小屋にかかれり

  潜(かづ)きては浮かぶ海鵜の湾内にぬつと入り来る「ジョージ・ワシントン

 

  荷をはこぶトラックあまた見かければ心やすらぐ工場の街

 

     小田原   五首

  本丸の跡に囲はれたゆたへる象のウメ子は還暦を越ゆ

  薪背負ひ本を読みゐる石像がむくげの花の陰に見えたり

  書(ふみ)好きの武士の屋敷にたちよりて書借り読みし金次郎はや

  愛憎の山荘に住み作詞せり「あはて床屋」も「かやの木山」も

  太枝はみな切り払ひあぢきなし榧(かや)の木下の古石地蔵

 

  山頂の西のなだりに人知れず蜘蛛の囲かかる水引の花

  蜘蛛の糸枯葉つるして光りたり空気うごけば枯葉がまはる

  「東海道分間絵図」の一里塚遊行寺坂に彼岸花咲く

 

     岬   八首

  かつて見しあまた孔雀のはなやぎがまぼろしに立つ真鶴岬

  カワハギの色のうすきと濃きが二尾連れ舞ふ秋の魚座水槽

  闇ふかき秋の夜長の明けぬればかぼそくなりぬ蟋蟀のこゑ

  目があへば条件反射に鳴きにけり目やにためたる白き野良猫

  灯台へひときは細き道は見ゆうすもも色の貝殻の浜

  店番はどこも老人店先に干物ならべて椅子に坐れる

  海水を浴びて保養の照ケ崎青鳩きたり海水を飲む

  今の時期カタクチイワシ釣れるらし鱗ちらせるアイスボックス

 

     無頼と勤勉   三十首    

  堰堤に腰をおろしてもの思ふ入水の前の太宰の写真

  このあたり入水の場所と伝へたり赤きむくげの花咲く水辺

  鉄柵が堰堤沿ひにたてられて涼しき風の散歩道ゆく

  流されし上水に添ひ歩きけり草木しげりて水面かくせる

  この橋にかかりし男女死顔に寂(じやく)と愕(がく)あり赤き絆の

  いまは無き太宰旧居の前に咲く太宰が愛でし百日紅

  鴎外の墓見てをればそがひには太宰の墓を見て立つ女

  鴎外の書斎のあかり消えざればいつ寝るのかと荷風思へり

  論争を好める性(さが)は茂吉とも共通したり打ちてしやまむ

  依怙地にて脚気の治療をあやまてり三万人の兵を逝かしむ

  責任を追及されし気配なし軍医総監森林太郎

  太宰治、津村家之墓その横にしらじら立てる太田家の墓

  谷崎が志賀が受賞の文化の日倒れ伏したり太宰の墓前

  アドルムと焼酎により不帰の人左手首の傷浅けれど

  印税は子供にと書く遺言は太宰治集の朱(あけ)の扉に

  パラパラと「ギリシャ神話」をめくりては太宰治がつけし表題

  「オリンポスの果実」を高く評価せし亀井が憎む大き図体

  母親の留守を怒れる十七歳全裸になりて暴れまはりし

  水面を白き光が疾走す 滑席艇に目を奪はれし

  美しき無思想の川にボート漕ぐ合宿生活に小説忘れ

  ゆたかなる家に生れて入党す貧者思へるうしろめたさに

  入党も脱党もまたうやまへる兄の言ふまま行動したり

  朝鮮も日本の領土と疑はず内地のごとく欲をみたせり

  一人では癒しきれざる寂しさに二人以上と交際したり

  小説は創作なりと言ひはれど日々のくらしのわが身なりけり

  鴎外をしたひし人は多かりき荷風茂吉も訪れし墓

  権力の重しとれれば自己弁護非難はじむる人の世にして

  いま一度入水の場所にたちもどる その苦しみを想ひ得ざれば

  ひんやりと帰路の電車に眠りたり胸背にかきし汗の乾きて

  厭(いと)ひつつ読み終はりたる評伝の田中英光わが内に棲む

 

広辞苑第六版