天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

大阪城公園

大阪城天守閣

 気象庁の先の開花予報を信じて、金曜日の出張の夜を大阪で一泊、桜見物をともくろんだところ、直前になって実はコンピュータの入力ミスによる予報の間違いだった、というニュース。今更、ホテルをキャンセルするわけにもいかず、しかたなく一泊して大阪城公園に行った。
 一般に大阪城の石垣は、豊臣時代のものがそのまま残されていると思われがちであるが、実は現存する石垣はすべて元和・寛永(1620〜1629)に、徳川幕府が西日本の64藩を動員して築かせたもので、無数の刻印石がその事実を証明している。これは、刻印石を集めた広場に書かれている説明である。つまり、天下普請と称して十年の歳月を費やして石垣・堀・建物を徹底的に築き直したのである。なお、現在の天守閣は、昭和六年に復興したもの。
 以前にも見たのだが、淀君、秀頼母子と共に三十二人が殉死した山里丸跡に惹かれて、今回も訪れた。黒ずんで俯いた聖観世音菩薩の像が置かれていて、忠霊塔には次の歌が書かれている。ちょっと引用するのがためらわれるが、

  山里の悪夢はさめむ 永しえに 弥陀の浄土で一蓮托生


 殉死者三十二名の名前が書かれているが、大野治長真田大助、和期の局、宮内卿の局、玉の局などの名が見える。


      肥後橋や宿の道聞く春の宵
      太閤をしのばむ春の天守
      残る鴨柳青める濠の端
      ジョギングのみとれてまろぶ桃の花
      女生徒がVサイン出す城の春


  開花には十日もはやき城跡のさくら梢に天守閣見ゆ
  淀君と秀頼母子の自刃せし山里丸に楠の白骨
  殉死せし三十二人の名を刻む山里丸の石垣の上
  公園の青きテントを見下して天守閣立つかなしからずや
  石垣も濠もあらたに築きけり天下普請の元和寛永
  礎になりそこねたる石なれば残念石と呼びてさびしむ
  城跡の石垣かくも美しく濠の水面の春をことほぐ  
  ブラインドタッチに打てるキーボード結婚指輪かにぶく光れる
  新幹線車中に鼾聞こえたりまた繰り返すニューステロップ
  ひめゆり」の映画完成伝へたり新幹線のニューステロップ