天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

虚構

 俳句や短歌は生活実感を詠うもの。現場に立ち現物を見て詠むべきもの。といった教えが根付いている。したがって虚構をいまだに問題視する傾向がある。正岡子規高浜虚子以降の写生論の影響である。
ところが、俳句の季語では、実生活ではもはや体験しがたいものが増えてきている。逆に、果物や野菜は、季節を問わず身の回りに見ることができ、季感が失われてきている。
「野焼き」や「薺打つ」といった季語を含む作品を作ると、見たわけでもないことを詠んで嘘っぱちだ、と非難する批評がでる。
 ところで、もともと和歌には古くから虚構は当然として認められていた。題詠が典型である。新古今集では、行ったこともない歌枕を詠み込むことは、常識であったし、他人の作った作品から本歌取りをすることも主要な作法であった。前衛歌人塚本邦雄は、短歌はすべて虚構であり幻影をみる以外に価値なし、とまで言い切った。子規の短歌・俳句革新に対するアンチテーゼである。近代と違って現代は、先に述べた季語の非現実性にみられるごとく、近世以前の考え方に立ち返らざるを得ない。
 そもそも芭蕉が虚構に立脚して多くの俳句を作った。先日紹介した『悪党芭蕉』の著者・嵐山光三郎によれば、芭蕉奥の細道を歩いたが、風景なんかほとんど見てなかった。杜甫李白源氏物語西行などの古典を現場に投影したという。
 面白いことに、たまたま山口誓子著の『芭蕉秀句』を読んだら、古典を踏まえた俳句が具体的に分析されていた。誓子は、芭蕉の秀句を選ぶに当たって、本歌取りの句を外した。また、前書きがあれば無視して鑑賞した。つまり、十七文字の純粋に独立した詩として、優れている句を選んだ。俳句は第二芸術であるという批判に応えるための方法でもあった。
 俳句や短歌を鑑賞する時、現実には体験できない季語や現象なりが詠まれているからといって、嘘と決め付け評価しないとなると、もはや文芸として成り立たなくなる。本歌取りも認める。見てきたような嘘も認める。要は、本歌を越えているか、リアリティが横溢しているか、で評価するしかあるまい。ではリアリティとは何か? 読者が共有できる現実味ということになるが、それは必ずしも実際に体験したことがある事象とは限らないであろう。