天野 翔のうた日記

俳句はユーモアを基本に自然の機微を、短歌は宇宙の不思議と生命の哀しさを詠いたい。

俳句を詞書とする短歌(2/9)

[注意]このシリーズには、2017年8月17日から連載した「俳句と短歌の交響」というシリーズと重複する箇所があります。


岡井隆の場合
 俳句を詞書にしている短歌は、読者にとっては、先ず俳句を読み、それを本歌として短歌ができたと思って、両方を鑑賞するのが通常であろう。実際は、短歌の方が先にできて、後からその内容と響き合う俳句を詞書に配することも有り得る。この点、作品を解釈する際には、留意しておくことも必要であろう。
岡井隆の歌集で、俳句を詞書にした歌が最初に現れたのは、歌集『人生の視える場所』(1982年刊)の中の「2.趨る家族」であった。この歌集では、詞書を大胆に用いるのみならず、巻末には自注が付されているので、詞書や歌のつくられた背景を知ることができる。一例を紹介しよう。
  夏の雨きらりきらりと降りはじむ  草城
  頸椎(けいつい)を内よりひらき髄を見るあはれなる生やかくのごとき死や
岡井の自註には次のようにある。対応部分を引用する。
「ある夏の朝の病理解剖室での仕事のスケッチ。草城の句に代弁させたのは、おそらく、雨が降り出したからであろう。」
 以降の歌集においても岡井隆は、頻繁に短歌の詞書に俳句をつけている。両者の間に直接の関係がない組合せもある。例えば、短歌を作った時期、たまたま正岡子規について考えていたので、子規の句を詞書にした、というような。

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『人生の視える場所』思潮社